「五平太」からタイムスリップ

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昨日あるパーティに参加したが、そこでケータリングを担当していたお店の名前から、ひさしぶりに10年前ごろ躍起になって調べていたことを懐かしく思い出した。
そのなまえは「五平太」で石炭のこと。
炭坑があるところでは五平太伝説というのがあるらしいが、長崎の五平太は、徳川綱吉の時代に平戸領民五平太が高島で石炭を採掘、付近の塩田へ供給したことで、石炭のことを五平太と呼ぶようになったというもの。「高島炭坑史」のなかにも書かれている。

10年以上前、私が高島炭坑史を読んだわけは、山脇正勝という人物に興味を持って調べていたから。
山脇が高島炭坑に関わったのは、明治14年ごろから。岩崎弥太郎が高島炭坑を譲り受け経営に乗り出し三菱炭坑長崎事務所を設置し、、外国人と日本人1名づつが所長として送り込んだが、その日本人が山脇正勝。その前は三菱の上海支店長をしていた人物だ。のちに岩崎弥太郎が長崎造船所を政府から譲り受けた時は高島炭坑所長と三菱造船所の初代所長を兼務したなんともすごい人のなのだ。
この人は、桑名藩の家老の息子だったが、明治維新、故あって国許に帰れず、アメリカに渡り、そこで岩崎弥太郎と知り合っている。
なぜ国許に帰れなかったか。いろいろ事情があったが、一つは彼は朝敵だったということもあるだろう。幕末桑名藩の藩主は会津藩主松平容保の実弟・松平定敬で、藩はすでに新政府側についたが、定敬と彼の側近たちは徹底抗戦で、榎本武揚や土方歳三たちと一緒に箱館(函館)に渡った。山脇正勝は定敬の小姓の一人だったので、主君を追って箱館に渡り、箱館で新選組隊士となって、弁天台場に立てこもって戦っている。新選組といっても、箱館に渡ったときは京都時代の隊士たちは数少なく、その隊を「箱館新選組」という呼び方で分けているが、もちろん土方歳三以下、歴戦の猛者たちが集まった精鋭戦闘集団だったことはかわりない。その頃の山脇の偽名は「大河内太郎」。新選組隊士名簿にもその名が残っている。

もう10年以上前だが、三菱経営となった高島炭坑や長崎造船所の初代の所長が新選組隊士だった!という事実を知ったとき、初めて郷土史への興味をもったし、まだまだ研究されていない事柄がたくさんあることを知った。そして、その頃の長崎県令(知事)と長崎市長が会津藩士だったことも。

「五平太」というお店の名前からひさしぶりに幕末明治の長崎への興味を思い出した。
幕末明治を語るときの私のスタンスは、明治新政府によって無能者扱いにされた旧幕府側大名やのテクノクラート、知識人、その人たちと学びあった無名の人たちの功績をきちんと掘り起こすこと。
いま執筆参加のお誘いをいただいている共著本でも、長崎をテーマにしたいと思う。
幕末明治の長崎はおもしろい。

山脇正勝に就て10年前にこのブログに書いたり、自分のホームページ「長崎微熱」に書いた文章へのリンクを少し載せておきます。興味をお持ちの方はご覧ください。
三菱長崎造船所初代所長は新選組隊士だった!http://50s.upper.jp/coram/coram-naga3.html#naga3sono3
明治中期、長崎の近代化に貢献した三人のサムライ http://50s.upper.jp/saiken/samurai.html
「幕末の桑名」 重工業と金融業の基礎を築いた新選組隊士たちがいた。http://westcoast.exblog.jp/4998383/
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by windowhead | 2017-01-21 14:09 | 長崎なう | Comments(0)

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