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初代長崎市長は旧会津藩士だった。

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今年も会津に行けず、ストリーミング中継は繋がらないで、あきらめて机回りの大掃除をしていたら、本箱の奥から古めかしい本が出てきた。
「京都守護職始末1ー旧会津藩老臣の手記」 
山川 浩 著・ 遠山茂樹 校注 ・ 金子光晴 訳 
東洋文庫49 平凡社          


未読の本。6.7年ほど前、長崎の繁華街にあった老舗古本屋が閉店するとき、大方の本を処分されたあと、残りの本をただでわけてくれた。私が立ち寄ったのは最後の日だったので、くずのようになった本ばかりだったが、その中に、この本が残っていた。
当時、すでに「会津士魂」などは途中まで読んでいたが、箱舘新選組に興味がいっていたので、後で読もうと思ってもらってきて、そのままになっていたものだ。

かの地では、藩侯行列があっている最中に、この本が見つかったのもなにかの縁なのだろう。

山川 浩は、会津の俊才の一人で、会津籠城戦の総指揮をとった会津藩家老・山川大蔵だ。
調べてみると、東洋文庫の「京都守護職始末」は1、2に分かれているらしい。

この本についての詳しい解説がブログ「幕末ネット」に書かれていた。
京都守護職始末(2005.5.25、幕末.net)

それによると、この史料は幕末の資料として一級品と言えるものらしく、旧会津藩家老であった山川浩が、会津藩の正義を世に訴えるために明治44年に発行したが、明治維新の真実を揺るがすような内容であったため、発刊される数年前に、明治政府からの圧力で発行が見合わされていたらしい。

しかし、明治37年、元会津藩家老・神保内蔵助の次男・北原雅長が、会津藩の勤皇の立場を顕した「七年史」を出版したことによって、明治44年に山川浩悲願の「京都守護職始末」発行が実現されたらしい。


この幕末ネットの文章で、驚くべき事実を知って、恥じ入ってしまった。
私の住む長崎市の初代市長・北原雅長は、旧会津藩士だったということだ。
さらに、彼の兄は、会津藩公用方として活躍し、慶喜公や容保公に恭順をすすめ、幕府軍敗北の責任を押し付けられ自刃した神保修理。北原雅長は、次男だったので、北原家を継いだため、神保姓ではないのだ。

さらに、驚いたのは神保修理は、会津藩公用方として活躍したとき、洋式小銃の輸入や知識導入の為に長崎にきているのだ。秋月剃次郎もそうだったが、会津藩は、俊才をどんどん他国に出して新しい情報を取り入れている。修理は、大政奉還前に坂本龍馬に会い、勝海舟とも交流があったらしい。それを知ると彼が恭順を説いたわけがわかる気がする。


長崎と会津の接点がこんなところにあったとは!
戊辰戦争前後と長崎の関連を知りたくなった。
まずは、大政奉還がなされたとき、天領である長崎ではどのようなことが起こったか?調べようと思う。天領と言う特殊な土地柄だから、おもしろいことがおこっているかもしれない。
by windowhead | 2005-09-26 14:50

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


by windowhead