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旧会津藩士・日下義雄が長崎に残してくれたもの

日本に近代的な水道が登場したのは明治20年(1887)に通水開始した横浜水道で、2番目が明治22年通水の函館水道、そして3番目が明治24年完成した長崎水道だ。
首都東京にも近代的な水道がひかれていない時代に横浜、函館、長崎には、今のような水道があったのだ。ちなみに、東京に近代水道が開通するのは淀橋浄水場が完成し、神田・日本橋地区に初めて給水された明治31年だ。              

旧会津藩士・日下義雄が長崎に残してくれたもの_b0009103_255758.jpg長崎の水道が、先輩2つの水道と違うのは、日本最初の水道専用のダムを持った貯水池式の水道だったことだ。現代の水道とおなじような設備は、長崎の水道が最初ということになる。
日本最初の水道専用ダムは、「本河内高部水源地」という名称で、長崎市中心部で長崎街道始終点にあたる蛍茶屋の近くに現存しているし、今も市中心部の水がめとして活躍している。
長崎の水道100年の年に、長崎県の水道施設のパンフレットをディレクションしたことがあるが、そのとき、この施設をくまなく見学した。高さ18.15m、長さ127.27mの盛土方式のダムの堰堤は、コンクリートダムとは違った格調高さと美しさがあった。煉瓦造りの浄水施設内部はまるでヨーロッパの地下道のような幻想的な雰囲気だった。

旧会津藩士・日下義雄が長崎に残してくれたもの_b0009103_214670.jpgこの事業を計画立案し、粘り強く住民を説得して実現したのが明治19年(1886年)長崎県令(県知事のようなもの)に着任した旧会津藩士の日下義雄だ。

前回の文章でも紹介したが、日下義雄は、本名を石田五助と言い、嘉永4年(1851)会津藩医・石田龍玄の長男として生まれた会津藩士。弟の石田和助は、白虎隊二番士中組に属し飯盛山で自刃している。当時17,8歳の日下義雄も白虎隊士だったのだろうか。
城外で戦っていた日下は城に入れず籠城戦をあきらめて大鳥圭介たちとともに会津を脱出し、箱舘戦争も戦い、捕虜に。赦免された後は、長州藩士日下家の養子になって日下義雄に改名。井上馨の推薦で岩倉欧米使節団に同行してアメリカ留学を果たし、ヨーロッパを視察し、ロンドンで経済学を収め、帰国後役人になり、長崎県令になった。

長崎を国際的な町にするには、水道の敷設が必要事項と考えた日下だが、そのための費用は当時の長崎区予算の7倍にもなるため、水道建設事業は、住民になかなか理解されず、加えてよそ者の県令への風当たりは相当強くかったらしい。激しい反対運動もあったが、3年をかけて粘り強く説得を続け、やっと着工に至ったらしい。
日下義雄が、北原雅長を初代長崎市長に推薦したのもこの時期。
長崎という異郷で、会津での悲惨な戦いを潜り抜けてきた先輩を見つけたとき、日下はどれほど心強かっただろう。


長崎の近代水道施設が完成した翌年の明治25年、日下義雄は、福島県令として故郷の土をふむことになる。福島県令として3年の在任中に、郡山から会津若松を経て新潟県の新津を結ぶ岩越鉄道建設に貢献している。日下義雄の会津での功績は、会津若松市HPのあいづ人物伝に分かりやすくかかれている。


二人の旧会津藩士が尽力して長崎に残してくれた近代水道施設「本河内高部ダム」。
私の家の水道の水は、このダムとその下流の低部ダムから送られてくる。

私の日常は、あこがれの会津の先人の恩恵にあづかっている。
by windowhead | 2005-10-01 02:07

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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