箱舘戦争で気になっていること>>誰が「甲鉄」に乗っていたの?

箱舘戦争でずーっと気になっていることがあるのね。
昔から気になっているのだけど、私は戊辰戦争を旧幕府軍の側からしか勉強していないので、気になりながらもホームページやブログに書く勇気がなかったんだけど、最近、「会津葵と足立仁十郎について」以来知らないこと、気になることは、オープンにして、誰かに教えてもらうことが、解明の一番の近道だということを体験しちゃったので、もう言っちゃいますね。

それは「甲鉄」艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)のこと。
徳川幕府が慶応3年アメリカからの購入を約束した日本初の鉄板装甲の軍艦。
この船が日本に回航してきたときには、戊辰戦争が勃発していて、アメリカは局外中立の立場を取ってこの船の引渡しを保留していたけれど、慶応4年(明治元年)末ごろには、局外中立が撤廃され、翌年2月、ストーンウォール号は新政府に引き渡されるのね。
そして3月には新政府軍艦隊の艦船「甲鉄」として蝦夷共和国軍討伐のために、品川沖を出航、途中3月21日に宮古沖海戦、3月28日に青森港に入って、4月9日の新政府陸軍の上陸をサポートし、函館戦争へと突入していくわけだけど、

この「「甲鉄」を操船していたのは、いったい誰だったのか?」

これが、私の疑問なんですね。
引渡しから、出航まで1ヶ月くらいしかないし、日本で始めての鉄板装甲の蒸気船、それも排水量1360トンという大きさ。排水トンでは開陽丸より小さいが、新政府軍でその排水トンクラスの軍艦は薩摩藩の「春日」くらい。その春日だって木造船。たった1ヶ月で、わが国で初めての鉄板装甲・1300トンクラスの軍艦を動かすすべての技術を習得できるものかしら?
宮古沖海戦でも函館戦争でも注目の船なのに、そのときの乗船者の名前が歴史物語などにも出てこない。私が読んだ本の中では、1988年に出版された「だれも書かなかった箱舘戦争」(脇哲著)の中に「船長・中島四郎」の名が上がっていただけ。
中島四郎は長州人。なら、乗組員は長州人なのかな?長州の軍艦といえば木造スクーナー型蒸気船の丁卯丸125トンがあったが、鉄板装甲の1358トンの「甲鉄」艦とはあまりに違いすぎているので、丁卯丸の乗組員がすぐさま操船できるのか疑問だなあ。

「甲鉄」艦だけは、なぜかブラックボックスのように、乗船していた人の気配を掴みきれないのでいるのです。

実は、思うのです。
新政府軍に引き渡されてからも甲鉄艦には、アメリカから回航してきた外国人が乗り組んでいて、実際の操船は彼らがしていたのではないかなあと。
ほら、試乗期間というか、試運転というか、そんな名目で回航して来た時の船長、機関長から一般乗組員までが同船して日本人に指導しながら北に向ったのではないのかしら。
普通の航海は日本人に指導しながら進み、実戦になると操船になれている外国人が操船し発砲したのではないかなあ。
でも、まさか内戦に外国人が乗った船で闘ったとは言いにくいので一応船長は「中島四郎」に就任してもらったと。(中島四郎って、その前は丁卯丸の船長ではなかったかなあ。)

まあ、これは、あくまでも私の知識の範囲からの推測です。
私の知識は、旧幕府軍(蝦夷地共和国軍)側に偏った知識ですから、新政府軍に関する詳細はぜんぜん知りません。
「甲鉄艦」の乗組員について詳しいことを知っている人に教えてもらいたくて、恥ずかしながらの推測をかいてみました。

そんなことを色々考えていたら、今年初めにすごい本を見つけました。
『軍艦「甲鉄」始末』  中村彰彦著 新人物往来社 2005.12.25初版の新刊です。
昨日届きました。さっそく読み始めましょう。
さてさて、これで私の疑問は解消するかな?



===========(2006.4.10)
一風斎さんがコメントで以下のご指摘をしてくださいました。本文を修正のうえ、下記にご指摘内容を転載させていただきました。

なお、1つだけ指摘します。
「甲鉄」は元はアメリカ(最初は南軍の)衝角艦「ストーンウォール」ですが、「ストーンウォール・ジャクソン」ではありません。
両艦とも南軍の艦艇ですが、後者は河川用の衝角艦で、外輪(side-wheel) 駆動です(「ストーンウォール」=「甲鉄」は、2軸スクリュー駆動)。

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Commented by 郎女 at 2006-02-03 06:04 x
TBありがとうございました! お返しするまでにとりあえず。
もう解決はつかれたかもしれませんが、大山柏著『戊辰役戦史・下』(時事通信社発行)にも、甲鉄は朝廷が買い上げて、長州藩預けとなり、主な乗組員が長州、船将は幕末から長州海軍局総管だった中島四郎、となっています。大山柏氏は、薩摩の大山巌元帥の息子で、古戦史研究家です。薩長よりとはいえ、嘘は書かれないと思うのですが、ご疑問の点、うちの個人サイトの掲示板の海軍に詳しいお方に聞いてみます。
私見では、基本的な操船技術は、木でも鉄でも変わりらないと思うんですね。長州は長崎のオランダ海軍伝習に藩士十数名を送り出して以来、一応、海軍局を儲けて、海軍養成にはけっこう力を入れています。
また幕府海軍も、水夫は瀬戸内海の水軍の末裔を使っているんですけれども、長州には、瀬戸内水軍の末裔が多数いましたし、水夫に不自由はしません。
ちなみに、明治になってからも長く海軍は徴兵ではなく志願兵で、主に瀬戸内海沿岸の海運、漁業従事者から、水兵を募っていました。
Commented by windowhead at 2006-02-03 12:05
郎女さん、早速ありがとうございました。
そうか、水軍の末裔が長州にはいるのですね。
長崎も、海軍伝習所で学んだ地元の人やもともとの水夫たちが多くいたようで、朝陽艦で戦死したのもその半数くらいは長崎の水夫たちだったようです。甲鉄艦がその後明治政府海軍の軍艦「東」に改名された後の初代館長も中島四郎ですね。
Commented by まきこ at 2006-02-03 20:18 x
windowheadさん、こんばんは。
トラックバックありがとうございました。
昔のことなので、記憶が定かではないのですが・・・
「イギリス人が操船していた。」という話を読んだことがあります。
更には、「戊辰戦争は英仏の代理戦争だった。日本人は操られていたに過ぎない。」といった意味のことも書かれていて、複雑な心境になったことを覚えています。
水軍の末裔が操船していた、と言われる方が、ずっといいです…。
Commented by 郎女 at 2006-02-04 05:51 x
長州海軍について詳しいわけではないのですが、思い出してなつかしくなりましたので、まとめてみました。朝陽の乗組員については、まったく存じませんでしたが、咸臨丸がアメリカに行ったときの水夫には、塩飽諸島の出身者がけっこういたそうなのです。アメリカで亡くなられた方もあって、お墓があるそうです。
塩飽諸島は、自治を許されて、幕府のお船手組的存在でした。
読まれているご本、ぜひ、ご感想をご披露ください。楽しみにお待ちしています。
Commented by windowhead at 2006-02-05 11:20 x
まきこさん、情報ありがとうございます。
英国人が乗っていたとの話もあるのですか!さらに興味がわいてきます。

郎女さん、塩飽諸島の水夫が咸臨丸に乗っていたことは、有名ですが、同じ数くらい長崎の水夫もいたようです。彼らのなかにも病気で現地にのこり、その後他の船で帰ってきた人などがいます。咸臨丸子孫の会などで、塩飽の人々が有名になり、長崎の水夫たちは歴史に埋もれてしまいました。これも、少しづつ掘り起こしてみたいことです。
Commented by 一風斎 at 2006-04-10 16:39 x
初めまして、一風斎と申します。
興味深く記事を拝見いたしました。
確かに「甲鉄」のクルーについては
あまり聞いたことがありませんね。
お分かりになりましたら、記事でご紹介お願いします。

なお、1つだけ指摘します。
「甲鉄」は元はアメリカ(最初は南軍の)衝角艦「ストーンウォール」ですが、「ストーンウォール・ジャクソン」ではありません。
両艦とも南軍の艦艇ですが、後者は河川用の衝角艦で、外輪(side-wheel) 駆動です(「ストーンウォール」=「甲鉄」は、2軸スクリュー駆動)。

では、また。
Commented by windowhead at 2006-04-11 10:06
一風斎さん、ご指摘ありがとうございました。
本文中を修正し、ご指摘内容を、本文に転載させていただきました。
軍艦「甲鉄」始末にもクルーの詳細はありませんでした。
大手造船所で広報をやっていた私の素人考えでは、短期間の引継ぎでは日本人で運航できなかったと思えてならないのです。となると、クルーにはこの船に慣れた人たちが乗り込んでいたとしか考えられない…。
Commented by スマホチャットレディとは? at 2011-11-02 18:51 x
;l$^iw8i, www.smartphonelady.com, スマホチャットレディとは?, http://www.smartphonelady.com/guide/134.php
by windowhead | 2006-02-03 02:31 | Comments(8)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


by windowhead