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龍馬は何回長崎の地を踏んだのだろう?

8月初め、ある公民館講座を担当した。先方から示されたタイトルは「龍馬と長崎」だ。
龍馬のエピソードにはあまり興味がない私でも司馬遼太郎の『龍馬がゆく」くらいは読んでいる。
長崎と龍馬の関連で私が一番興味があったのは、
「龍馬はいつからいつまで、何度長崎に来たのか?」
「どんなルートで長崎に入ったか?」 だ。
せっかくだから、この際、それを確認してみようと思った。長崎龍馬会の知人から、龍馬関連の詳しい年表をいただいたので、これをもとに、龍馬の行動表を作ってみたが、なかなか興味深いものになった。

龍馬が最初に長崎を訪れたのは、元治元年(1864)2月23日龍馬30歳のとき。勝海舟に随行して長崎の地を踏んでいる。勝は、外国艦隊が長州攻撃をかけるということでそれを慰留する役目を負って来崎した。このときの龍馬はただの腰ぎんちゃくみたいなものだったろうね。二人は、大阪から「翔鶴丸」に乗って今の大分県佐賀関まで行き、佐賀関からは、陸路で途中、横井楠南を尋ねたりしながら、九州横断して、島原に着き、そこから船で長崎に入っているようだ。長崎での宿舎は「福済寺」。4月4日まで滞在し、往路と同じルートで帰っている。


<<坂本龍馬の行動表(長崎に関連した元治元年から慶応3年まで)>>

元治元年(1864 )
江戸→大坂→京都→大分→熊本→①長崎(約1ヶ月半滞在)→熊本→大分→大坂→京都→江戸→下田→神戸→京都→神戸→江戸→京都

慶応元年(1865 )
京都→鹿児島→熊本→太宰府→下関→西大寺→京都→周防→三田尻→山口→下関→京都→周防→②長崎(数日)→下関→③長崎(数日)→下関→兵庫

  ※③時に亀山社中結成

慶応二年(1866 )
兵庫→大坂→伏見→大坂→下関→④長崎(1,2日)→鹿児島→霧島→鹿児島→⑤長崎(約10日)→五島→下関→小倉沖→山口→⑥長崎(約10日)→鹿児島→⑦長崎(約10日)→下関→⑧長崎→下関→⑨長崎 (5ヶ月位の間に数回行き来)

 ※この年1月、近藤長次郎が自刃 
  2月、龍馬、寺田屋で幕府の捕手に襲われ、お龍に気転で逃れる。
  ④はお龍を伴って薩摩の船で長崎に立ち寄り、近藤長次郎墓に墓参。
  そのまま船で薩摩へ。お龍との新婚旅行と言われる行動は④と⑤の間で行われている。
  ⑤の後の五島行きは、この年の5月長州藩からの兵糧を積み鹿児島に向け出航し、
  五島沖で座礁したワイルウェフ号の後処理と同航海で死亡した池内蔵太、黒木小太郎ら
  の弔いのため。

慶応三年(1867 )
長崎→下関→⑩長崎(約1ヶ月半)→鞆の浦→下関→⑪長崎(約20日)→下関→大坂→京都→兵庫→土佐→下関→⑫長崎(約1ヶ月)→下関→高知→大坂→京都→福井→京都

  ※⑨時に海援隊結成(海援隊本部は小曽根邸に置かれた)。
    ⑩から出航は「いろは丸」に乗船。鞆の浦までの間で衝突沈没。
    ⑪からの出航は 土佐藩船「夕顔丸」に乗船。後藤象二郎に「船中八策」披露


こうして、数えてみると、12回長崎に来ていることになるが、慶応2年、長州と長崎の間を何回も往復しているので、15回くらいは長崎に足を踏み入れていることになる。
そして、初回以外はすべて船を使っているところが龍馬らしい。

龍馬にとって、船と長崎は、本当に将来の活動の拠点として自分のライフプランに位置づけていたのだということがはっきりとみえてくる。
将来の飛躍の前に、国内のごたごたが早く治まるように、ついには荒治療に手を貸した、その最中に暗殺されたということだろうか。

この行動表を見ていると、やはり龍馬は、幕末最高の「パシリ」(良い意味で。腰が軽く、行動力がある人、社交性がある人が、人と人の間を用件をもって行き来すると、物事はスムーズに進んでいくのだ。)だったと…。龍馬だったら「パシリ」と言われても、侮辱されたとは思うまい。彼の本来の目的は、倒幕後の地位や権力ではなく、海外貿易だったから。開かれた未来を夢想するなら、パシリでもなんでもして、さっさとスタートラインを作りたかったのだと思う。

「行動表」を作ってみると、改めて龍馬の行動力に敬意さえ感じてしまう。
by windowhead | 2006-08-25 18:44 | 長崎と幕末維新

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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