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朝から、頭にきた「朝日新聞捏造事件」



朝からめちゃくちゃ頭にくる!朝日の記者の記事捏造事件。
フジとホリエモンのメディア戦争のとき、「IT業者なんかにメディアはできない。ジャーナリズムは素人ができるほど甘くない」なんて、多くの記者上がりの評論家やキャスターたちがさも自分がそれをやってきたと言わんばかりに偉そーに言っていたが、捏造がジャーナリズムか?!!

朝日には捏造体質がくすぶっている。
昔、共産党の伊東律との単独会見捏造事件というのが有名。
そして、沖縄のサンゴのらくがきを捏造した朝日カメラマン。
条件反射的にもこの2つが飛び出してくる。

昔、うらやましいものとして、「朝日の給料、共同の仕事…」なんて地元記者が言っていた。朝日新聞の給料は地方記者がうらやむほどの高給らしい。その給料は読者が支えているんだから、やはりこのような不祥事には不買運動です。我が家も今年末までの契約。
そろそろ新聞をメディアと考えない決心を実行するときかも。

今の新聞は折込広告のバインダーだもんなあ。だって、折込広告のほうが本紙より重いよ。
本紙にも広告がいっぱい。となると、新聞記者が取材して作っている記事ってかなり少ないのかも。それも捏造では、どんな仕事してるんかい!といいたくなる。

そういえば、昔はよく喫茶店やサークルなんかにいつも顔を出して自前で飲んだり、観劇している人がいて、「だれ?」って聞くと「○○新聞の記者さんだって」ということもあったが、最近は、イベントの当日、しゃあしゃあと現れて、お金も払わずしゃあしゃあと前の方に座り、イベント後はまた、さも当たり前のように当事者への取材をその場で持ちかけ、お礼の言葉もなく立ち去り、書かれた記事はたった数行なんて記者が普通にいます。
イベントの紹介なら、事前に書いてもらいたいのが主催者の気持ち。事前に書いてもらったからお礼に、当日だって無料で入れてあげるし取材もさせてあげられるわけで、今のマスコミは取材してあげるんだからありがたく思えといわんばかりの「えらそー」な態度の若手が多すぎ。
こんな記者に限って、日常は街に出ていない。普通の会話がへた、そして一般の人との話になると無口。長野の28歳の記者もそんな奴だったのだろう。


とにかく、記事の捏造という恐ろしいことを日本の最大手の新聞社の記者がやったことは、本当にたいへんなことなのだ。犯罪として糾弾されるべきことだと思う。それが、懲戒解雇と編集関係者たちの更迭だけ。
これに対して読者がやるべきことは「不買」という意志表明。

なんでこれほど、こだわるかというと、つい今年初めにも、フジと堀江問題の時、ジャーナリズムは素人にはできないなどと言い放ったマスコミ上がり評論家たちの思い上がった態度に怒って新聞購読を断ったことがある。(こんなことのために、我が家では、購読期日を決めないで、購読している。)そうしたら、すぐに販売店の人が来て、あなたの意見はちゃんと地元の支局長にも伝えて会社にあげてもらいますから、購読続けてください」とお願いされたので、3ヵ月後に購読しはじめた。
購読し始めると、今度は捏造事件。なんの反省もなされていないのだ。
今度こそ、絶対に朝日は契約を解消しよう。そして、金輪際朝日は買わない。もちろん「アエラ」も買わない。

朝日ばかりではない、そろそろ「新聞と新聞社信仰」から手を切る時期がきているのだ。
これを機会に自分にあった情報収集の方法を考え、上手に組み合わせて、こちらが間違った情報に踊らされないような自己防衛を真剣に考えようと思いましたよ。
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by windowhead | 2005-08-30 10:09 | 日日抄 | Comments(4)

テレビがよみがえらせてくれた読書の記憶

b0009103_23113570.jpg 「ラストファイト」 写真:内藤利朗、文:沢木耕太郎、集英社

さきほど、TVでカシアス内藤氏の姿を見た。
沢木耕太郎に「一瞬の夏」というニュージャーナリズムの金字塔のようなルポルタージュを書かせたボクサー。
ガンを患ったらしいが、ボクサーを育てると言う夢の実現の途中をしっかりと歩いていた。なんとなくひとごとでない懐かしさを感じた。

当時、私は沢木耕太郎の大ファンだった。
彼の処女作「敗れざるものたち」に完全に魅入られていた。その後も、沢木耕太郎の書くもの書くものを追いかけて読み漁っていたくらい。カシアス内藤のカムバックを追いかけた「一瞬の夏」上下巻も一気に読み上げた。読み終わると、もう次のものを求めたくなる。次の作品はまだない。そんななかで、カシアス内藤の写真集が出る、文章は沢木耕太郎が書いているらしいという情報がはいったが、その本の名前がわからない。そこで、ついに、最後の手を使ってしまった。

実は、これまでに2度、ファンレターを書いたことがある。1度目が沢木耕太郎氏、2度目が、写真家の橋口譲二氏。幸せなことにお二人からとても心のこもった直筆の返事をいただいた。
1度目の沢木耕太郎氏へのファンレターの最後のほうに、その写真集の情報を聞いているが、タイトルも出版社もわからないので、まだ、手に入れていない。タイトルと出版社を教えていただけないかと、まるで返事を強要するような文章を書いてしまった。
1ヵ月後、沢木耕太郎氏から、封書で返事をいただいた。そして、そのなかに、「あなたが探している写真集は「ラストファイト」のことだろう。自分の手元にも数冊あるので、お分けしてもいいですよ。」と書かれていた。さっそく、送ってくださいという手紙と代金を送り、折り返し手元にとどいたのが「ラストファイト」(集英社)。写真家は沢木氏の友人でもある内藤利朗氏。中には「一瞬の夏」の文庫版に収められた沢木氏の短編「リア」も掲載されていた。

TVでカシアス内藤氏を見たので、久々にこの写真集を引っ張り出してみた。沢木耕太郎氏から送ってもらった「ラストファイト」。そこには、29歳の美しい男の体と汗が写っている。帯に賛辞を書いた村上龍の文章によれば「この写真集には冷えた汗がとらえられている。」と言うことらしい。
b0009103_23153699.jpg私が一番好きな写真は、夕日が入る粗末なジムで、トレーナーのエディ・タウンゼット氏を相手にトレーニングする姿をとった1枚だ。痩せた老人・エディさんの後姿が心を打つ。この写真集は、カシアス内藤だけでなく、カムバックの試合に関わった人々の「あの夏」のレクイエムなのだろう。
ひさびさに「ラストファイト」を眺めながら、当時、自分の中にもあった疾走感をなんとなく懐かしんでいる。

偶然にカシアス内藤さんのボクシングジムのブログをエキサイトの中から発見した。

カシアス | E&J カシアス・ボクシングジム ブログ
25年前の「一瞬の夏」がよみがえったようなサイトだ。




同じように昨晩も愛読書を思い出させてくれるテレビ番組があった。
NHKの人間ドキュメント「15歳の長い一日 ~渥美半島 夜の50キロ歩行~」。
その芝居のセンスがお気に入りの山本耕史氏がナレーションを務めると言うのもあったが、この夜の50キロ歩行という行事にとても興味をそそられて、食い入るように見てしまった。

これは、恩田陸の「夜のピクニック」の世界だ。

 「「夜のピクニック」の読後感は、読書ブログ「乱視でごめん」にも書いたが、この行事を完歩することも大事な目標なのだろうが、だれと歩くかということも高校生にとっては大切なことのはず。

ドキュメントの構成では、映像としてそのことは重要視されてなかったが、ナレーションの端々に出ていて、胸が熱くなった。難聴の友人に付き添った2人のさりげないやさしさ、最後まで手を繋いでゴールした男女生徒のこと、淡々としたナレーションの中に、そのことが彼らには特別な思い出になるという予感をはらんでいた。

いい番組を教えてくれた山本耕史ファンの皆さん、情報ありがとう!
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by windowhead | 2005-08-27 23:17 | 男たちの眺め | Comments(0)

倉場富三郎の遺志が、「グラバー図譜」になって蘇えった日

b0009103_3502052.jpg
今日8月26日の昼下がりの蝉しぐれのなか、ウエストコーストの外人墓地(坂本町国際墓地)でささやかな慰霊祭が行われた。

外人墓地の中にある日本人名の墓碑、プロテスタント牧師による慰霊の祈り。なんとなく複雑な背景が感じられる慰霊の対象の人物の名は「倉場富三郎」。あのトーマス・グラバーと妻ツルの愛息だ。

トーマス・グラバーは、鎖国が開けて開港まもない長崎でグラバー商会という貿易会社を起こした英国人。幕末時は、坂本龍馬や薩長土の討幕派を支援し、武器弾薬や艦船などを販売斡旋したり、伊藤博文たち外留学を斡旋するなど活躍した人物。武器商人としては東のスネル、西のグラバーと言われたほどであるが、ご当地長崎では、武器商人という呼び方には消極的。もちろん、日本初の蒸気機関車を走らせたり、炭鉱開発したり、修船場を作ったりと日本の産業発展に尽力している。
維新後、武器が売れなくなったり各藩からの資金回収ができなくなって会社は破産しているので、やはり、グラバー商会の柱は武器の販売であったことはまちがいない。
グラバーは晩年、東京で過ごしているが、お墓は長崎の坂本国際墓地にある。


b0009103_405141.jpgグラバー家の二代目となるトーマス・アルバート・グラバー、日本名・倉場富三郎は、英国人と日本人のハーフで、その生い立ちがその後、彼の悲劇の枷になる。
彼は、学習院に学び、陸奥宗光のアメリカ公使赴任に随伴して、アメリカに留学。帰国後、長崎の商社で社員をしながら「長崎汽船漁業会社」を起こし、蒸気トロール漁船をイギリスから輸入して近代漁業に貢献している。
b0009103_464055.jpgこのとき、底引き網にかかる多種多様の魚を見た彼は、分類研究できる魚類図鑑を作ろうと思い、私費を投じ、21年かけて完成させたのが「グラバー図譜」(「日本西部及び南部魚類図譜」)だ。
太平洋戦争が始まると、敵国人とのハーフである彼に対する監視の目は厳しくなり、周囲の疑いを晴らすために日本軍に協力する姿勢を見せ続けた富三郎夫婦だったが、敗戦になると、戦争協力者として糾弾されるのではないかとの不安の中、妻が急死。その後を追うように富三郎は自殺している。

富三郎は遺書の中で、「グラバー図譜」(魚類628図、貝類や軟体類をいれて総数805図)を元日銀総裁・渋沢敬三に贈っている。その後、「グラバー図譜」は、渋沢家から長崎大学に寄贈され、現在も長崎大学附属図書館に所蔵されている。

この「グラバー図譜」が、今回、長崎市内の出版社の手で、本になった。
富三郎の死後、60年となるこの日、出来上がった図譜の1冊が、彼の墓に捧げられた。

二つの祖国を愛し続けたために絶望し、自ら死を選んでしまった富三郎の下に、彼が丹精こめて描かせた図譜が戻ってきた。祈りの式典を取り仕切った牧師さんが言った「富三郎さんは、グラバー図譜の本になって蘇りました」という献辞が印象的だった。

※グラバー図譜の本について、詳細はあす書きたいとおもいます。
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by windowhead | 2005-08-27 04:01 | 長崎と幕末維新 | Comments(3)

「亡国のイージス」を見た翌日に進水した5隻目のイージス艦の名前は「あたご」

昨日、ウエストコーストの造船所で、新しいイージス艦の進水式があった。
すでに配備されている4隻の艦より大型、「ノドンミサイル」を迎撃できるらしい。「あたご」と命名された。
この造船所では、現存するイージス艦のうち「こんごう」「みょうこう」「きりしま」の3隻を建造している。(映画「亡国のイージス」に協力したのは2隻目の「みょうこう」らしい。)今回進水式があった船台では、戦前、あの戦艦「武蔵」が建造されたという歴史がある。

毎日対岸にある造船所が眺められる街に住んでいると、船には自然に愛着が湧く。
b0009103_5494659.jpg7月末、イージス艦「ちょうかい」がこちらの岸壁に係留され、一般公開があったので、乗船した。フレンドリーな自衛官さんから、イージス艦の特徴など詳しく説明してもらっていたので、先日、映画「亡国のイージス」を見たときにも、艦内セットがリアルだなあという感想も持てたし、作業シーンや戦闘シーンで、なにをしているのかが理解しやすかった。

「亡国のイージス」は、まだ読んでいないので、純粋に映画が楽しめた。

なにがあっても盾(守る)としての武力しか行使できない自衛隊の矛盾や、今の日本は守る価値のある国なのかという命題を突きつけられながらも、最前線にいる自衛官たちは、精一杯の誇りやしなやかな人間らしさで任務を遂行しているというのがわかりやすい。

キャスティングのうまさに唸った。士官たちに長身で姿のいい人を多く配しているので、身体能力はあるが上背のない真田広之が、相対的にカッコよく見えない。だから、真田演じる千石専任伍長の、スーパーマンでない中年男の身体をはったがんばりがリアルに感じられる。もう1人の主役・如月役の勝地 涼の存在感のなさは、仕方ないだろう。それでも、透明感のある輝きはあった。
国会議事堂グループの配役が絶妙。アウトサイダー役者の代表・原田芳雄が演じる首相、岸部一徳演じる内閣情報官の食えないリアリティ。脱帽!岸部一徳と並ぶと佐藤浩市は何を演じても佐藤浩市。

谷原章介が演じる風間海尉の人物設定が、もっとも今の一般人に近い人間だろう。状況に対応できず揺れ動いたり、武器携帯に腰が引けたりしている士官なのだが、最後の最後は、とっさの判断で身を挺して盾になってしまう。あっけない死。一般市民も身を挺すれば国を守る盾になれるとでも言われているようで、ちょっと違和感があるが、思い過ごしかな?

イージス艦の中では、東京を守るために多くの人が死んでいったのに、それらの犠牲で守られた日本の中枢は、被害もなく一件落着で、なんら変わらない。この後味の悪さは、原作者福井晴敏が確信犯的に仕掛けたものだろうか。

暴走するイージス艦は最後は爆破沈没させられた。船に愛着のある私には、このシーンが一番悲しい。


「亡国のイージス」の物語は、日本の「今、そこにある危機」なのだが、経済主導の繁栄に浮かれているとその危機を見逃してしまう。
劇中で岸部一徳が言う「平和というのは、戦争と戦争の狭間に生まれるものだ」との言葉が残る。平和とは恒常的なものでないと胸に刻んでおこう。
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by windowhead | 2005-08-25 05:52 | 日日抄 | Comments(0)

「死国」は次元を超えて恐怖をもたらす。

b0009103_31596.jpg 「死国」 坂東真砂子著 マガジンハウス

季節外れになる前に、ちょっと涼しくなる話を…。

「死国」という伝奇ホラーがある。四国を舞台に、その地の因習や閉ざされた社会での怨念など、日本人独特の恐怖心理をじわりじわりと衝いてくる。「かごめかごめ」まつわる死者の世界との結界の話や逆周りの遍路行を繰り返すと死者が蘇ると言う裏の伝承などが織り成す恐怖は、当時秀逸だったと記憶している。その後、映画化もされた。

作者の坂東真砂子のエッセイ本「身辺怪記」には、「死国」の執筆中に起こった怪奇なできごとが書かれている。
電話に出ると無言電話で、「かごめかごめ」が流れてきたり、編集者との連絡の行き違いがあったり、書き出すとワープロが動かなくなったり、あげく、「死国」の原稿を打ち出すと、ワープロに表示されている文章の文字がどんどん消えていくという現象まで起こったそうだ。
この部分を読んで、ゾーッとした。
同じようなことが、私の身辺にも起きていたのだ。

じつは、「死国」の初版本を持っている。
私は、この本、最後まで読んだのだが、クライマックスが読めなかったのだ。

私の本は、死者がよみがえり始めたというところで、ページを繰ると、次の見開き2ページが真っ白!。驚いてまた次にページを繰ると見開きに文章がぎっしりあるが、また次の2ページは真っ白と繰り返しがつづいている。まるで、私が読み進む先になにかがいて、文章をどんどん消していってるような姿をしているのだ。やっと正常に戻ったところは、すでにクライマックスシーンは終わり、物語の締めくくりにきていた。

b0009103_3204253.jpg製本や印刷に詳しい人なら、これは、1枚の紙の片面に印刷がなされないまま製本されたから起こったミスで、この本は不良品だということで一件落着だろう。

それでも、「身辺怪奇」を読んだときは、まるで作者の身辺で起きたワープロ画面から文字が消失していくという現象が、私の手元の本でも起きたようで、背筋が寒くなった。

その後も、本箱の中に眠るこの本は、真っ白だった表紙が意味ありげに黄ばみ、どんどん怪奇な風格を付けつつある。ときには、明るい外光の元にさらして、陽性のパワーを吸収させてあげなくては!と、いうことで、今回はブログに登場していただいた。
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by windowhead | 2005-08-21 03:20 | 至福の観・聞・読 | Comments(1)

女はいつも待つ役なのね…「女たちの新選組」

b0009103_1349285.jpg女たちの新選組 ー花期花会ー  
江宮隆之 著  河出書房新社

やっと読み終えた。
新撰組隊士とその妻や恋人たちとのラブストーリー。
◆藤の章(お琴と歳三)◆凌霄花の章(お梅と芹沢)◆芍薬の章(あぐりと愛次郎)◆花菖蒲の章(ツネと近藤)◆侘助の章(明里と山南)◆萩の章(壬生心中)◆白梅の章(総司の恋)―付 向日葵◆忍冬の章(歳三最期)と、それぞれの恋を花になぞらえている趣向は女性的だが、著者はれっきとした男性。
著者があとがきでことわりを書いているように、フィクション性が強い。

全編のかたりべとして、歳三のいいなづけ・お琴が出てくる。お琴は、歳三の後を追って、京都や函館にも出むく設定になっているので、新選組隊士と女たちの恋の行く末を見ているし、かかわりも持つ。
それぞれの章は、お琴の視点からの一人称と物語としての三人称で書き分けられている。

正直、男たちの群像劇が好きな私の嗜好とは合わなかった。
それでも、男たちの周りには女たちがいるのが普通で、私の好みのほうが少年漫画的に幼いのだろう。
夢に向っって突き進む男とそれを献身的に支え、待つ女…常套的なラブストーリーは、ある意味「冬ソナ」に通じる世界なのかもしれないし、男たちの永遠のロマンでもあるようだ。なんと古風な物語だろうと、いまさらながら著者の無邪気さに感心する。それでも、それぞれの隊士たちの描き方には愛が感じられる。著者は、新選組の男たちに魅力を感じてくれているようでうれしい。

年号も明治にかわり、歳三もだれもいなくなってしまった「忍冬の章」の最後。お琴の語りに、大河ドラマ総集編のおみつの姿が重なる。

残されるのはいつも女たち。彼女たちの心の中の男たちは、いつも輝きながら遠くを目指している。…なんてね。ちょっと恥かしい表現だったりして。
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by windowhead | 2005-08-18 13:57 | 至福の観・聞・読 | Comments(0)

はしゃぎすぎが軽薄なテレビ朝日のニュース感覚

ジーコジャパンが勝った。
日本が予選リーグ1位でワールドカップに出場できることになった。
ジーコが、サポーターたちに向って挨拶をするという。
TVの前で応援していた私たちも、ジーコのメッセージを一言もらさず聞こうとCMの間も席を立たずに待っていた。

ジーコの挨拶が始まったとたん、ジーコの声はしぼられて、そのかわり、古館いちろうの声。
彼は、会場にいる女性レポーターや香取慎吾や福田たちに話しかける。
勝ったことへの喜びや、香取がいると負けていないなど、どうでもいいことではしゃいでいる。
サッカーファンたちが今聞きたいのは、ジーコの言葉なのだ。
そのジーコの声はほとんど聞こえない。むしろ古館らの声のじゃまにならないようにしぼられている。ポルトガル語はわからないから、日本語通訳のとき、声をアップしてくれるのかと、思っていたらなんと、試合を振り返るということで、VTRに切り替えられた。
なんという見当違いな報道姿勢だろう。

TVで応援してきたファンたちは、みんなジーコの言葉を聴きたいのだ。
あまりの腹立たしさで、テレビ朝日に電話かけようかと本気で電話番号を探したくらい。

他の人が、「もしかしたらBSでやってないかな」と言ったので、チャンネルを切り替えたら、BS1でやっていた。すでに、ジーコの言葉のほとんどは、終わっていた。
しかし、サッカーの神様は見捨てなかった。ジーコの最後の言葉が聞けた。
「せんしゅ、すたっふ、さぽーた、めでぃあのみなさま、どうも、ありがとうございました」
たどたどしい日本語で、そう挨拶してくれた。この言葉か聴けただけでもうれしい。
画面では、選手たちとジーコが、本当に幸せそうな笑顔で会話したりボディータッチしたりしている。
この気持ちのいい選手やジーコの姿は、名キャスターやアイドルの言葉の何倍もの感動をくれるのだ。

がんばった選手たちに、サポーターや観客たちが、感動をありがとうとリスペクトの拍手を贈り、それに応えて、これまで応援してくれたサポーターや観客に、選手を代表して監督が感謝の言葉を贈る。
このすばらしいシーンを伝えず、本来脇役のキャスターやレポーターが感激した!とはしゃぐ姿を放映したテレビ朝日の報道センスのなさ!こんな局にスポーツ中継して欲しくないなあ。
ここで、「さすがNHK!」と言うのもしゃくなのだが、BS1の放映のまっとうさに感謝した。
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by windowhead | 2005-08-17 22:46 | 日日抄 | Comments(2)

「やぶいり」に妖魔あり!!「百鬼夜行抄」

b0009103_13495277.jpg13巻が出ていた。お盆の最中にこの本を手にするのも何かの因縁。
「ねむき」連載のこのまんがもすでに13巻。月1回くらいのペースでの連載でもう10年も続いている。律くんも浪人のすえに数巻前で大学生になってしまった。大学生の律くん、勉強はあまりしていないので、すでに留年しているのかも。

摩訶不思議なものが見えてしまう高校生飯嶋律くんとその家族たちのお話。、ユーモアたっぷりでほのぼのとした日常と同じ次元に登場する魔物たち。人間の思いの強さがもたらす魔物や魔界は、ある時は邪悪であり、ある時は美しく、また悲しい。
小説家だったおじいさんが魔界との付き合いがあり、律もその血をついで、魔物が見える。おじいさんは死ぬとき、律と家族を守ってくれるように、青嵐という魔物と契約を交わす。事故で死んだ父親の姿を借りた青嵐と同居する飯嶋家の人々。
飯嶋家は、おばあさんとお母さんがお茶やお花の先生をして家計を支えている。このおばあさんとおかあさんのおっとりとした雰囲気がいい。魔界との接点でもある自宅で普通に自然に日常が営める女のしなやかさがすてき。

律を助ける(やや困らせる感もある)小鳥の妖怪尾白と尾黒がユーモアの要にいる。律を「若!」と呼び、「~~まする」と大河ドラマのような武者言葉を話す小鳥たちは、命を救ってくれた律に忠実に従っているが、時々、行き過ぎて困ったことを引き起こす。

妖怪たちは、妖怪なりの考え方で行動するので、人間とのずれが出てくるのだが、そのずれを楽しむのもこのまんがの楽しさかもしれない。とはいえ、話の多くは、人間のおろかしさや、深い想いが呼び寄せる魔物とそれを退治する律の物語なので、一件落着しても手放しで喜べない「哀しみ」が漂う。


最近、「百鬼夜行抄」を手に取ると、必ず,畠中恵の「しゃばけ」シリーズを連想する。
大店の病弱な若旦那とそれを守る2人の妖怪たちが活躍し事件を解決するかわいらしい時代小説。若旦那は、魔物が見えるし、若旦那のおばあさんは魔界の人。人間のおじいさんと結婚して、その孫に魔界と通じる特殊能力がそなわるという経歴も「百鬼夜行抄」に似ている。もちろんどちらもオリジナリティーが高く、ジャンルも違うので、アイデアの盗用なんていう気はない。


でも、最近、「百鬼夜行抄」って、「しゃばけ」に似ている。と言った「しゃばけ」ファンに出会ったので、これだけは言っておこう。
どちらが先かと言えば「百鬼夜行抄」がずーっと先行していた!と。なにしろ、10年以上続いている連載で、そのスタイルはぜんぜん変わっていないのだから。

装丁の美しさもこのまんがを連続して買う気にさせる要因の一つだ。
いろいろな意味でこの作品の転機になりそうな13巻。
今市子さん、律がおじいさんになるまで続けてくださいな。
輪廻転生の物語に発展してもいいからさ。
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by windowhead | 2005-08-16 13:50 | 至福の観・聞・読 | Comments(1)

とっておきの映像2つ


今ひとつ、私の中で不完全燃焼だった「ラスト・ファイブ・イヤーズ」千秋楽。あれ以来気分のノリが悪い。
ファンのブログを読んでも、これまでの山本耕史の舞台を思い出しても、今回の千秋楽には、パッションが感じられなかった。
たしかに、アンコールは4回あったし、1回は原曲を歌ってくれたし、宙返りもしてくれた。演技は細かいし、歌は上手いし、相変わらずすごい役者だなあと思う。しかし、本番の舞台のほうに「今日でこの演目は最後なんだ」という思い入れが感じられなかった。フェミニストな彼は、最後の最後の舞台で、観客よりも共演者を取った。Naoさんを光らせるために、彼のエネルギーを抑えてアンサンブルを重視したな、と感じた。アンコールで歌った歌が一番吹っ切れて伸びやかだった。それじゃ、反則でしょう。と、小さくつぶやく山本ファンな私がいる。

山本耕史は、この演目は「RENT」に通じるものがあると言っていた。
彼のインタビューの中に必ず登場する「RENT」。「RENT」は彼の役者としての生き方にも方向性にも大きな影響を与えたと語っている。

そんな「RENT」に関する当時の映像を友人の好意で見ることができた。
当時の制作発表会見の様子や「NEWS23」で特集された映像だ。
出演者が一列にならんで歌う「Seasons Of Love 」やマークとロジャーの息もつかせない掛け合いが見事な「RENT」など実際の舞台の数シーンが観られるが、山本マークのすばらしいこと!彼は完全に「マーク」に見える。マークと同化しているし、ものすごいエネルギーを発散している。これだけ見ても「山本耕史」の代表作は、「ひとつ屋根の下」ではなく「RENT」だと言うべきだと思えるほど。昨年から「新選組」も入ったが、やはり、彼の代表作を1つ挙げると「RENT」になるのではないかな。
切れっぱしの映像からでもそう感じさせるほど、舞台上の彼はすばらしかった。
これに似たようなオーラを感じたのは、「リンダリンダ」の中で「トレイントレイン」の最初のフレーズを歌いだしたとき。一瞬でそれまでのガチャガチャしたシーンとは別の象徴的な次元に引き込む力を持っていた。この演目は3度見たが、どの回も同じようなオーラで一瞬のうちに引き込まれた。

「リンダリンダ」でさえ出ていたこのオーラが、「ラスト・ファイブ・イヤーズ」では感じられなかった。彼自身が好きなジャンルの演目と言っていたのに、なぜ?

ただただ今は「RENT」が見たい!と切望している。
アメリカでは、ほぼ舞台のオリジナルキャストによる映画「RENT」が今秋にも上映されるようだ。
おそらく、その後日本にも上陸するはず。それを機会に「RENT」や「tick, tick...BOOM!」の再演が企画されないだろうか。



話は変わって、もう1つの映像。
やっとTVの画面で「LIVE8」の映像を見ることができた。
ありがたいことに、スティングもちゃんと聞けた。「みつめていたい」に入る前のイントロ部分に、「POLICE」を感じて最高の瞬間。ピンクフロイドのかっこいいこと。ボブ・ゲルドフもいい歳のとり方している。
なにより会場の雰囲気が最高に熱い。特に、本会場・ハイドパークではコンサートの趣旨に賛同して集まった観衆とミュージシャンの間にお互いへのリスペクトが感じられる。夕日に染まるハイドパーク会場は一枚の絵のように美しかった。
もっと見たい、短縮版でないものが見たいと思うのは贅沢かなあ。
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by windowhead | 2005-08-15 04:33 | 至福の観・聞・読 | Comments(2)

ジェイミーは「山本耕史」だったー「ラスト・ファイブ・イヤーズ」楽日。

この演目の楽日でもある「ラスト・ファイブ・イヤーズ」福岡公演を観てきた。
千秋楽ということで、かなり思い入れたっぷりな舞台になるのではないかと、予想していたが、わりと淡々としてちょっと肩透かし。最後の最後だからここは演出どおりに演じたのではないかと思えるほど抑制が効いていた。

キャサリン、最初の曲がダメなので、始まりからバランスの悪さが目立ったが、進行するにつれ歌は気にならなくなってきた。それでも、最後まで歌手のまま。
ジェイミーのほうは、舞台も見慣れているし、歌も演技も定評のある人だが、これだけ歌いこなす人とは思っていなかった。それでもあえて言わせてもらえば、この日の舞台は、どこかセーブしているような感じがした。とはいえ、山本耕史は、相変わらず、澄み切ったオーラを発している稀有の俳優。


あまりいい評価ができない部分もかなりある。
どうしても、ジェイミーとキャサリンではなく、山本耕史とNaoに見えてしまう。
アップテンポの曲を歌う時、動きが「山本耕史」なんだな、彼独特の両手の人差し指で前を指すポーズ(二丁拳銃ポーズ)や、首を前に突き出すような動きがあって、これ「リンダリンダ」でも歌うシーンでやっていたってことは、彼の素の動きなんだなあって、ちょっとジェイミーが遠ざかる。
それと、もう少し、舞台っぽいメイクをして欲しかった。髪型も服装も、あまりに普通の山本耕史なので、舞台にいるのがジェイミーではなく山本耕史。ファンとしてはうれしいけれど、作品としては、どうなのかな?
山本耕史という俳優は、舞台での実力もオーラもある俳優なので、どうしても、より以上の期待をしてしまい、こっちの観かたも厳しく、感想も辛口になってしまう。

キャサリンのNaoについては、初舞台ということなので、がんばっていたということで。キャサリンの衣裳は、ミスマッチ。主婦になりたくないという女なのに、着ている服も、バッグも主婦そのもの。この衣裳でキャサリンの性格付けがあいまいになっていると思う。

ジェイミーもキャサリンも1,2曲、歌い終わったら拍手が来ていたが、「ラスト・ファイブ・イヤーズ」はライブやリサイタルではないので、曲ごとの歌い終わりに拍手がくるというのは、観客をお芝居の世界に引き込めていないということで、問題かも。演じている人はどう感じるのだろうか。

演出は、もう少し、工夫というか親切さが欲しかった。
場面が変わらない中で、違った時間軸にいる2人なのに、衣裳も変わらないのでわかりにくい。
ホリゾントの時計や窓の扱いが分かりにくい。観客は、台詞がないだけに歌に集中しなければいけないのに、時計がうごいたり、窓に映るものが変わったたりで、歌詞に集中できない。意味があるのなら、もっと分かりやすくして欲しかった。
一番違和感があったのは、時間軸が違う二人なのに、視線の先に相手がいるところ。特にキャサリンが演じる時、その視線が、時間軸が違うはずのジェイミーに向いているし、彼の周りを回ったりする。それでは、見ているほうは混乱してしまう。奥行きを使って、立体的な演出の工夫ができたのではないかなあ。

斬新な演目だったので、とても期待していた。楽しませてもらったが、感激すると言うまでにはいたらなかった。その1つの理由に、ファンクラブで取ったチケットだったが、下手端っこだったので、二人が盛り上がるシーンでジェイミーの背中ばかりしか見えなかったというのもある。いっそ上手端っこのほうがよかった。たった1回の観劇チャンスだから、チケット取得は、ファンクラブ頼りにせず、他にあたるべきだったと反省。

「ラスト・ファイブ・イヤーズ」、もう少し大人の恋愛の物語として、見てみたい。今回の舞台に不満が残るのは、青少年の恋物語に見えてしまうことろ。山本耕史にもう少し大人の男としてのジェイミーを演じて欲しいし、なにより、キャサリンが大人の女でないと、この切ない物語は深まらないと思う。

この「ラスト・ファイブ・イヤーズ」を観て、「RENT]や「tick tick BOOM!」を観たいという思いを強くした。来年30歳の山本耕史が演じる等身大のジョナサン・ラーソン。実現して欲しい夢のひとつ。
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by windowhead | 2005-08-11 04:26 | 至福の観・聞・読 | Comments(6)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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