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Tさんと山本耕史くんの接点はやはり紋蔵かな?

イベントの出張やパネルディスカッションの準備などで1週間ほど芸能情報や新選組情報からはなれていたら、ずいぶん浦島太郎化してしまっているようだ。

家人の話によれば、先週、望月亀弥太が音楽番組でドラム叩いていたらしい。ボーカルが阿部サダオだったというから「グループ魂」か。ドラムの石鹸が亀弥太(三宅弘城)とは知らなかった。ビジュアルに期待するバンドではないからプロフィールなんてほとんど気にしていなかったもの。これから「竹内力」とか「本田博太郎~~」なんかが流れてきたら条件反射で「多摩勤皇党!」を思い出すだろうなあ。

いつのまにか、いつのまにか「Shinsengumi Express!!」というサイトがオープンしていて、指先まで土方に生き写しであろうと努力したと思われる山本耕史くんの土方写真が!
なんだか、グッとくるものがある。でも、残念ながら、視線が違う。本物の土方の視線はその先にある彼岸でも見ているような静かさだが、山本君の視線はそんなものは見ていない。気力が充実している山本君に土方の視線は無理なのだが、それでも努力家の完ぺき主義者は、必死に視線がもつ力を殺している。だからなんだか人形のような虚ろな写真写りになったのだろう。個人的には、昨年のカメラをキッっと見据えたカメラ目線の土方写真のほうが好きだ。

撮影日誌に目を通していると、しぶいTさんと源さん”おみそ”という記事に、舘ひろしさんと山本耕史くんが面識がある…というようなことが書かれていた。
ふーん、顔が広いんだ耕史くんは、と思って読んでいたけど、そういえば、舘ひろし氏と山本耕史くん、NHK金曜時代劇「物書同心 いねむり紋蔵」で共演していた。
紋蔵さんが舘ひろし氏、そのおとなしい長男・紋太郎に扮したのが山本耕史くんだった。ほのぼのしたり切なかったり金曜時代劇らしい良質なドラマだった。再放送して欲しいなあ。
主題歌はいまは亡き河島英五の「元気だしてゆこう」だった。
「元気だしてゆこう」がその後、2000・シドニー五輪サッカー日本代表のサポートソングになったときも、紋蔵さんをなつかしく思い出した。

「物書同心 いねむり紋蔵」の再放送、NHKにお願いしてみようかなあ。
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by windowhead | 2005-11-29 23:16 | 新選組!な人々 | Comments(5)

郷土史への興味は新選組から…と、言ってしまった(汗)

こちらの歴史文化協会で「長崎と会津の接点」というお話をさせてもらった。
ほとんどが自分より年上、多くは50歳以上の方々、それも地方史研究家だったり、長崎学のオーソリティがいたりで、本当に私がお話していいの?と、恐れ多かったのですが、皆さんの前に立ってしまえは話すしかありません。

仕事柄プレゼン慣れしていますから、臆することはないのですが、つかみをどうするかで、やはりこれしかないと、言ってしまいました。
「実は、私が会津と長崎の接点に興味を持ったきっかけは、新選組です。長崎にいて新選組なんてと思われるかもしれませんが、土方歳三のハンサム写真がきっかけです」(ドキドキ)
皆さんからフワッとした笑いが起こりました。
昨年の大河のことにふれ、「来年の正月には土方歳三最期の一日が放映されるそうです」というと、何人もの方が知っていますよ、私も見ますよといわんばかりの笑顔でうなづいて下さいました。その多くは女性の方々。大河「新選組!」は、龍馬ファン、薩長肩入れの人が多い長崎の地でも、なかなか好意的に見られていたようですし、続編も楽しみにしていらっしゃるようでした。なんだか、あたたかい気持ちに包まれたようで、その後の話がとても楽になりました。
おかげで無事、話を終えることができました。

テーマとしても珍しかったらしく、おおむね好評で、ホットしました。
数人の方から、テーマに関する新しい情報をいただきました。
全国歴史研究会の特別顧問をされている方から「新選組フリークなら釣洋一氏を知っていますか」と聞かれましたので、「もちろん、特に、釣氏の「土方歳三波濤録」は調査を始められた時から待ちに待った本で愛読書です」と答えると、「新選組に関する資料などがありますから、あげますよ」と言われ、ここに連絡してくださいと名刺をいただきました。
さっそく、近くご連絡してお話を伺うつもり。

本当に気持ちのいい収穫の一日でした。
なにより、わが町に「大河新選組!」のシニアファンがたくさんいたことがうれしい。

歴史を真摯に学ぼうとする人たちは、かたくなな思い込みや入れ込みがなく、ニュートラルな視点で物事を見ているのだということを今更ながら知らされました。
シニアの研究者たちの懐は深くて広い。さすがです。
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by windowhead | 2005-11-29 12:22 | 新選組!な人々 | Comments(3)

明日は長崎歴史文化協会でプチ講義

なにがきっかけで人生変わるかわからない。
幕末、長崎から奥州に出兵した長崎振遠隊について教えを請うために長崎歴史文化協会をのぞいたのはいつだっただろう。
先日、久しぶりに協会のトップ、郷土史家の越中哲也先生にお会いしたので、先生の先祖すじにあたる足立家とは、会津御用達ですか?とお聞きしたことから、私の会津熱に話が及んだ。
(越中先生の先祖の足立家は、残念ながら私が探していた会津藩御用達の「田辺屋」足立家ではなく、柳川藩御用達だった両替商「海老屋」の足立家だった。)

「なせ、会津に興味が沸くのか?」地元であう人ごとに質問される。
長崎にあっては、龍馬や海援隊、薩摩長州肥前鍋嶋などへの興味ならともかく、縁も縁もない会津に興味を持つわけが理解できないらしい。
答えれば簡単なことで、幕末の日本で最も筋を通した生き方をしたのは松平容保公ではないかと思っているからであり、その清廉潔白な人柄に頭がさがるからだ。
でもここに話を持っていくには、新選組という入り口を話さなければならない。土方の写真というミーハーな入り口から入った新選組への興味を人に語るのはちょっと気恥ずかしい。
でも、明日は、その入り口から話さなければならないだろうなあ。
高齢な歴史ファンや郷土史研究の人々を前に「私の幕末史研究のきっかけは新選組です」というのは勇気がいるぞ。
もし、新選組は朝敵だという人がいたら、どうしよう。そうでないということを理解してもらうのに私の講義の時間を全部使ってしまいそうだ。そんな質問がきませんように。

講義の組み立ては、お菓子「会津葵」の栞に書かれた足立仁十郎について。足立家の急速な没落の背景。幕末明治に長崎を訪れた人々。無名の会津人を墓碑から探す。など。

すこし不安ではあるが、どのような感想が聞けるのか楽しみでもある
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by windowhead | 2005-11-28 02:22 | Comments(3)

久しぶりの霊山。佐々木只三郎の書と会う。

所用の帰り、京都乗換えだったので、霊山歴史館に立ち寄った。リニューアル後初めて。
20日は坂本龍馬生誕170年記念の霊山歴史館秋季特別展「龍馬とめぐる人々」の最終日だった。
まず、おみくじ気分で入り口のガチャポンを!出てきたのは原田左之助ピンバッジ。中吉でしょう。
龍馬ファンの友人から頼まれていた龍馬の切手セット人物編3000円也を2セット購入。限定の絵葉書いり。ちなみに人物編は西郷隆盛、武市瑞山、龍馬、勝海舟、松平春嶽、後藤象二郎、中岡慎太郎(笑顔のほう)海援隊と土佐藩士、桂小五郎、高杉晋作の写真や肖像画をバックに龍馬のバストショットの肖像が重ねてある。切手のデザインは決してよくないのでちょっとがっかり。豪華な台紙には乙女姉さんに宛てた龍馬の手紙だ。

展示物は平凡だったが、心引かれたのは佐々木只三郎の書1幅と1双。
1幅は、龍馬を斬った桂早之助に送った和歌。条幅。
すばらしい。私にはこれまでに見てきた幕末維新の人々の書のなかで一番感動した文字だった。達筆だし、勢いがあるし、バランスがいいうえに、高潔といってもいいくらい清々しい。潔癖なのに華やぎがあるのがたまらないなあ。これを見ることができただけでも、この日、霊山歴史館に行った価値がある。
もう1つの屏風仕立ての書は、彼の絶筆。鳥羽伏見で受傷して担ぎ込まれた農家にお礼に書き残したものらしい。前の和歌のような繊細な美しさはないが、最期の力をこめたような力強さ。それでも乱れがない。これもすごい。
なんだか、佐々木只三郎をもっと知りたくなってしまった。こんな男を育てた会津とはどんなところだったのか。またまた会津に惹かれていく。

霊山に行っていつも思うのだが、ここは幕末維新やその後の戦争で国のために戦死した人の墓所があり、それを祭る護国神社があるところだ。国のためとはいっても靖国神社同様、天皇家を国とするため、その逆賊とされている幕府側の戦死者は顕彰されていない。そんな墓所が見下ろすような霊山歴史館で、新選組展があるのも不思議なものだ。あの墓所には、池田屋で闘死した宮部鼎蔵、北添桔磨、望月亀弥、大高又次郎、松田重助たちの墓もあったと思う。墓の中の人も、展示される人も複雑だろう。土方が拷問にかけた古高俊太郎の墓も霊山の墓所にある。歴史館でも人気アイテムの土方を古高の霊はどんな気持ちで見ているのだろうか。たかだか百数十年前のこと、まだまだ人間臭い感情が湧いてきても不思議ではないなあと、つい墓所の方を見上げてしまう。
じつは、新選組関連グッズを持っているときは墓所には回らないことにしている。なんとなくだけど自然とそんな気持ちになるところ。

その後、久しぶりに壬生のほうに足を伸ばした。
昨日の京都は、もう観光客がいっぱい。霊山がある東山界隈はお正月のような人出だったが、壬生はそれほど人はいない。それでも大河「新選組!」が放映される前よりは多かった。時間がなかったので、とにかく光縁寺で山南さんはじめ隊士の墓参りだけさせてもらった。
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by windowhead | 2005-11-21 15:22 | 新選組!な人々 | Comments(1)

再現・龍馬のブーツは37000円!

久しぶりに長崎龍馬会事務局長の金子さんに会った。
彼の会社が開発販売している「龍馬が愛した珈琲」は長崎からの手土産に最適で、よく利用している。今回も注文したら気安く届けてくれた。
龍馬の愛した珈琲を飲みながら、情報交換。興味深い龍馬情報を2つほど。

ひとつは、11月中に福島県にも龍馬会が発足するとのこと。これで、日本中で龍馬ファンの会がない都道府県は皆無になる。龍馬は全国制覇。さすが龍馬。人気はダントツだと思い知らされる。

もう1つの情報は、龍馬のブーツにまつわる話。
龍馬がブーツを履いている写真は2種類ある。桂浜の龍馬像の元になった有名な立ち姿の写真と三吉治敬氏蔵の椅子に座った写真。2つの写真のブーツは違うものだと彼は言う。

立った写真のブーツはつま先がそりかえっていてサイズが合っていないのは一目瞭然。
金子氏の話ではこのブーツは高杉晋作にもらったものらしい。高杉は当時海峡を通行する外国船を襲撃していたので、その戦利品の中古のブーツを龍馬にあげたのだろうという。合理的な龍馬はわらじより丈夫で歩きやすい靴を愛用することになったのだろう。

座った写真のブーツは、つま先も上がらす、足にフィットしているし、立った写真より靴が新しい。当時、龍馬は長崎でグラバーのもとをたびたび訪問していた。グラバー邸がある長崎の居留地には、トンプソン靴店という靴職人をかかえた靴屋が1軒あったそうだ。龍馬は新しい靴をグラバーにプレゼントされたのではないかと金子氏はいう。
当時のトンプソン靴店の靴のカタログのようなものが残っているそうだが、そこに、座った龍馬がはいているものに似た靴が1種類あるそうだ。
金子氏たちは、その靴が龍馬がはいている靴と同じデザインと断定し、龍馬のブーツとして商品化にふみきった。
最初は、長崎市内で老舗靴店の靴職人さんにお願いして受注生産していたが、それでは間に合わないので、今では「リーガル社」と契約して量産できる体制で商品化している。

龍馬と同じ形の再現ブーツの価格は税込み37000円也。すでに30足くらい注文がはいっているとか。
形は足首までの短いサイドゴアのブーツ。色は濃い茶色。皮がやわらかく履き心地のよさそうな靴になっている。

そういえば、幕末の印象的な靴の写真は、坂本龍馬と土方歳三だろう。
龍馬の靴を再現すると一足37000円になるなら、土方のロングブーツはいくらかな?
ちなみに、龍馬のブーツ、金子くんが注文受け付けてくれるとの事。

<追記>
金子くんの龍馬のブーツについての記事と注文方法のページ
土方ファンの「ウエストコースト日日抄」が龍馬のPRをするのも変だけど、歴史を掘り起こす楽しさを知っている者同士の思い入れかな。
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by windowhead | 2005-11-16 23:52 | 長崎と幕末維新 | Comments(0)

日曜日は「亀山社中幕末祭」

完璧に旧幕府側に肩入れの私だけど、実は地元では「亀山社中ば活かす会」という団体に所属しています。
龍馬の銅像がある丘が私の町内だし、亀山社中跡があるのはお隣の町内という関係で、年会費2000円のこの会にちょっとかみ。
この会の主な目的は亀山社中跡を維持し公開することなので、イベントといえば、2月の菜の花忌、春の総会と花見、秋の月見、それに龍馬の誕生日近くに催される「幕末祭」くらい。そのほかは、毎週土曜日と日曜日の午前10時から午後3時まで亀山社中跡を公開が大きな役割。
亀山社中跡はボランティア運営のため土、日の限られた時間しか公開していませんが、訪問者の数は年間1万人を越えています。観光客の減っている長崎の中で訪問者が増え続けている稀有の場所のひとつ。龍馬ファンがいかに根強いか思い知らされます。

さて、11月15日は坂本龍馬の誕生日。生誕170年になるらしい。(ということは土方歳三も生誕170年だったわけだ。…と、やはり土方のことをどこかに書きたいのはファンの心理です。ごめん)

そこで「亀山社中ば活かす会」でもこんどの日曜日(11月13日)亀山社中跡の小さなお庭で生誕祭の神事をおこない、その後、見学者のみなさんに、御神酒とお茶のサービスをすることになっています。
この日は、龍馬ファンの人たちが多く集まるのではと思います。
龍馬ファンのみなさん、気軽に「亀山社中跡」にきてくださいな。
オープン時間は午前10時から午後3時まで。

龍馬ファンでなくっても、長崎在住の人、長崎旅行中の人、遊びに来てくださいね。ちょっと急な坂道を昇りますので、平坦地出身の人は覚悟してね。

土方ファンは、ひっそりと水屋の手伝いにいそしもうとおもっています。


そういえば、霊山歴史館で、龍馬生誕170年記念の龍馬切手を発行するようですね
龍馬関連の写真があしらわれた切手シートで、「京都編」と「人物編」の2種類。いずれも80円切手10枚に加え龍馬や志士らの写真が10枚印刷されています

って、書かれていますが、志士らの写真って、だれだれだろうか?中岡慎太郎は勿論あるでしょうね。桂小五郎、高杉晋作あたりはありそう。ほかは?気になるなあ。海援隊の陸奥宗光もないとおかしいよね…。なぜか気になります。そのてん、新選組ならそのメンバーはすぐ選べるけど、写真がない人が多いからねえ…。
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by windowhead | 2005-11-11 11:00 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

なめてた、ごめん!「KOji YAMAMOTO&K.D earth」

「リトルショップオブホラーズ」の初演を観に行った友人にお願いして劇場で購入してもらった「山本耕史とK・D earth」のミニアルバム「IN MY HANDS」。

「まあ、音楽好きで歌唱も楽器も上手な俳優のバンド活動のお手並み拝見。おそらく、平均値以上は行っていると思うから、無駄遣いではないし…。」という、ある意味ご祝儀買いのつもりだったが、正直、驚いた。

ちゃんとした世界がある。
気負いもなくナチュラルだけど、しっかりと構成され、丁寧に作られていると思う。
それぞれの曲が調和がとれているし、なによりハーモニーがいいなあ。
どこか最盛期の「安全地帯」のアルバムを思わせる。
そこらのプロのロックバンドなんかよりよっぽど大人の仕上がり。
喉をつぶすような叫びや巻き舌のくせのある歌い方なんかしていない。
自然に余裕のある音量で、詩がはっきりと聞き取れる。そして、その詩にのせた感情の流れに嘘がない。
聞きながら、なぜか「ジャクソン ブラウン」が思い浮かぶ。
曲調も声もまったく似ていないのだが、やはり、ジャクソン・ブラウンなんだなあ。
なにより、メッセージを強調するでもない自然で嘘のない詩が心に深く染み渡っていくところががジャクソンブラウン的なのかなあ。

とにかく、参った!です。
KOji YAMAMOTO&K.D earthは、今の音楽業界に打って出ても絶対に引けをとらない、というより、勝るとも劣らない洗練されたバンド。
久しぶりに、聞かせてくれるバンドに出会ったなあ。
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by windowhead | 2005-11-07 18:30 | 至福の観・聞・読 | Comments(4)

あきれた!放火犯はNHK記者だって、それも「サツまわり」

ことあるごとに、このブログでマスコミやジャーナリストなる人々の思い上がりに疑問を感じると書いてきていたが、今回ほどあきれた事件はない。開いた口が塞がらない。

11件もの放火をした犯人がNHKの記者=ジャーナリストだったとは!
それもまあ24歳の若い「さつまわり」。記者になって2年目でしょう。上司からしかられることも走りまわらなければならないこともあたりまえの半人前のくせに人間関係に絶望しただの孤独感にさいなまれただの、言うことだけはいっぱしだが、しょせんは記者という仕事が合わなかったのだろう。そのむしゃくしゃで火をつけられたのでは被害宅や消防士たちはたまったものではない。

友人に数人新聞記者がいる。彼らが地方の「さつまわり」をしていたころからの付き合いだ。今はデスクなど前線から退いているが、当時は、ほとんど休みもないように取材先を回り、夜討ち朝駆けをかけ、毎日のようにいろんなところに顔を出し、それを自前でやっていた。(まあ、当然経費にできるものはそうしていたのでしょうが、若造の経費が認められたかどうかは不明)独身若造は正月だって当番が当てられる。実家に帰れず食事する場所も休みであまりにわびしい正月を見かねて、女友達の家で元旦にご招待したほど。そんな不規則で忙しい生活をしていたようだ。抜かれたらしかられるし、特オチすると罰もあるらしいし、誤報などには細心の注意を払わなければならないタイトな職場でも、彼らが活き活きしていたのはジャーナリズムの世界が好きだったからと言う。彼らは会社の看板より、一人のジャーナリストとしてのプライドを大事にしていたように思う。
おしなべて彼らに好感を持ち、これまでもこれからも友人として付き合っていけるわけは、ジャーナリストとしてのプライドは高いが、ジャーナリストや記者の特権意識を振り回さないという人間的にもフェアな人たちだからだ。

最近の記者たちを見ていると、マスコミとしての特権意識だけが高く、それでずかずかと入り込んでくることが多い。協力しないと記事を書いてあげないぞといわんばかりの態度の人を見ることもある。マスコミ報道を会社やイベント、個人のPRに利用するという取材される側の思惑もあって、記者たちに必要以上に寛大であることが、ある意味で若い記者に本来の自分の立場と言うものを見誤らせている部分がないでもない。一般市民も反省する部分はあるのだろう。
そんな特権意識と甘えが、今回の放火犯のような心情を形成しているのかもしれない。
同時に気になるのは、半年前の事件であり、早いうちからこの記者が容疑者に上がっていたのではないか、だから休職させたのではないかと想像できるところだ。NHKばかりでなく、他の報道機関も、容疑者として彼が上がっているのを知りながら仲間意識で書かなかったのではないか。そうであればその人たちもジャーナリスト失格ではないかな。仲間を思う気持ちは分かるが、事実を曲げてはいけない。それがジャーナリストの最低の使命だと思う。
ジャーナリストというのは、基本的に会社を背負うのではなく、個人だと思う。
会社での調和や昇進が気になって悩む犯人は、もともとジャーナリストに向いていないのだ。会社の社員教育を問うより、採用の基準を問いたいと思う。
いずれにしろ、またまたマスコミやジャーナリストという人たちのコメントが信じられなくなってきているといくことを胸に刻んでおくことだ。
マスコミが信じられないと言うことは、自分で判断するための材料から確かめなければならなくなったということ。さらに手間のかかる世の中になってきたが、自己防衛にはそれしかないのだろう。
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by windowhead | 2005-11-07 10:42 | 私的危機管理 | Comments(0)

パンと箱舘戦争と密かな恋心「美姫血戦 松前パン屋事始異聞」

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「美姫血戦 松前パン屋事始異聞」 富樫倫太郎著 実業之日本社

「函館売ります」がおもしろかったので次回作を待っていたら今度も箱館戦争がらみとのことで、期待して読んだ。
今回は、松前が舞台。松前藩を占拠し、蝦夷共和国の松前奉行になった人見勝太郎が松前の和菓子屋藤吉にパン作りを依頼するところから始まる。人見と藤吉を引き合わせる男装の娘蘭子は、父の敵を討つために脱走軍に加わる。
パンなど食べたこともない藤吉のパン作りの苦労、冬を越すと必ず新政府軍が押し寄せてくることを覚悟しながら決戦の準備をしていく旧幕府脱走軍の人々。人見、伊庭の男の友情、蘭子を取り巻くほのかな恋心など、史実を交えながら物語らしい物語になっている。

根っから明るい人見勝太郎の存在が全体を清々しくしている。
土方も登場するが、ヒーローぽい描き方なので私には平凡な魅力でしかない。その土方が蝦夷共和国政府設立パーティ時にブリュネと会話するシーンがあるのだが、このシーンに仏語通訳として田島金太郎の名前が出てくる。本人は登場しないが、田島金太郎の名が出ただけで、私にはこの物語がぐっと身近に感じられる。

b0009103_0235653.jpg田島金太郎は、函館に現存している1枚の有名な写真に写っている1人だ。
その写真とは、ブリュネら仏人軍人と軍服を着た日本人が一緒に写っている箱舘戦争当時の写真だ。
前列左から2人目の外人がブリュネといわれている。そして前列右端にいるのが田島金太郎応親なのだ。嘉永4年の生まれで13歳で講武所にいり砲術を学び、「横浜仏語伝習所」で仏語を学んだ幕臣。箱舘戦争で生き残り、日清、日露戦争を軍人としてくぐりぬけ、軍人をやめてからニューカレドニアに行ったりしている。なんでニューカレドニアなんかに行ったのか?突拍子もない人だ。彼に関する興味深い話は以前このブログで紹介した鈴木明著「追跡ー一枚の幕末写真ー」に書かれている。

「美姫血戦ー松前パン屋事始異聞」は、函館戦争の側面を描いた物語としては平凡だが、日本人がはじめて取り組むパン作りの物語として興味深かった。

日本にパンが入ってきたのはいつなのか調べてみたら、1543年鉄砲と一緒に伝来したらしい。南蛮文化で栄えた長崎や平戸では盛んにパン作りがなされたが、一般には普及せず、その後鎖国になってパン作りは出島のオランダ商館でだけ作られていたようだ。

幕末近く、「兵糧」としてパンに着目した人がいた。
幕府から江戸湾の警備を銘じられた伊豆韮山代官・江川太郎左衛門だ。
1842年には、製パン所を作り、長崎からパン職人を呼び寄せて本格的にパンを焼かせたという。この時のパンは今の乾パンのようなものだったらしい。
日本人のためのパン作りの父はなんと、あの江川太郎左衛門だった。
江川太郎左衛門と聞けば「未完の多摩共和国」を読んだ人ならピンとくると思うが、あの多摩地域を治めていた開明的な代官だ。佐藤彦五郎や小島鹿之助のような優秀な名主を育成し多摩独自の文化と自治力の基礎を築いたとも言える人だ。
江川太郎左衛門は、砲術家の高嶋秋帆とも面識があったようなので、兵糧としてのパンの利点は案外長崎出身の高嶋秋帆あたりから聞いたのかもしれない。「美姫血戦ー松前パン屋事始異聞」のなかで、人見勝太郎が兵糧としてパンを考えたのは、この江川太郎左衛門の事例を知っていたからだろう。
ヤマザキパンのホームページには、「パンの祖」江川太郎左衛門が国産第1号のパンを焼いた日は1842年4月12日、これを記念して毎月12日を「パンの日」にしていると書かれている。

ちなみに、韮山代官所で国産第1号のパンが焼かれた年、土方歳三は7歳、前年におかあさんを亡くしている。沖田総司は生まれたばかり。
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by windowhead | 2005-11-02 00:33 | 至福の観・聞・読 | Comments(9)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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