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歩きに歩いた「平成天神様ウォーク」

b0009103_12471613.jpg長崎の歴史愛好家の中で密かなブーム?「天満宮二十五社巡り」、通称「平成天神様ウォーク」に参加した。
天満宮といえば、子どものころは「頭のよくなる神様だから、ちゃんとお参りしなさい。」と言われてことあるごとに連れて行かれていたお宮なのでなんとなく愛着がある。道真公は頭がよくって子どもにやさしい神様なんだと勝手に思い込んでいたところが、歴史を学ぶと彼の悲劇的な一生を知り、祟り神となったというのに少なからずショックを受けたものだ。

朝8時に「松森天満宮」集合、最後は午後4時出雲神社で終わるという丸一日天神様づくし。
よっぱりと前日のジャズライブの余韻があだして、朝タクシーを飛ばしたが、松森天満宮に行ったときにはみなさん出発したあと。
松森の梅の香りと宮司さんに送られてそそくさとつぎの諏訪神社の下に先回りして皆さんに合流。
案内してくれるのは、梅園身代わり天満宮のお世話役で丸山界隈の歴史にも詳しい料亭「青柳」の山口さんと松森天満宮の伊奈さん。
それぞれの天満宮さんに事前にアポイントもいれてくださっているので、いつもは中をみることができないところも、わざわざこのイベントのために門を明けてくださったり、「おせったい」をご用意してくださったりで、とても心のこもったものになっていた。

とにかく、坂の町長崎に散らばる天神さんを巡るのだから、それなりに心してかからなければいけない。階段を上ったり下りたり、丘を越えて、つぎの小山へ、小山から街中へ、また丘を越えてと、それなりに息を切らせながらのウォークだ。
おばさんの私よりもっとお歳が上の方々も多かったが、みなさん元気。それに、神社やお寺を巡る礼儀を知っていらっしゃる方々が多いので、参拝の礼儀なども教えていただき、有意義だ。ちゃんと分かっている方はお賽銭を準備していらした。私もさっそく、お財布のなかの小銭を全部準備、たりないときは、コンビニで弁当を買った時に…。

観光で神社やお寺を巡る時、ガイドの案内でずかずかと中に入る人も多いが、やはり神社やお寺を見せていただくときは、最初はお参りするべき。それが、そこを見せていただく者の礼儀でもある。
そんなことを体験の中から教えていただけるのも、このような集まりのよさ。
知らないでいると、他所にいったとき粗忽者のそしりをうけることになる。

巡った天神さんの名前だけあげておこう。
松森神社・松森天満宮~新大工天満宮~今博多天満宮~諏訪天満宮~樺島天満宮~坂の上天満宮~長崎大神宮~桶屋町天満宮~伊勢宮神社~中島天満宮~真言宗大生山賽正院威福寺跡・桜馬場天満宮~水神神社~松島稲荷神社~松姫稲荷神社・笠頭稲荷神社~古川町天満宮~今籠町天満宮~水口天満宮跡~八坂神社~愛宕神社~八剣神社~梅園身代わり天満宮~本行寺~梅香崎天満宮~楳香崎天満宮~出雲神社

振り返ってみても、よくまあ歩いたよ!といいたくなる。
長崎に詳しい人なら道のりをイメージしていただけると、この行程が二次元的にもかなりの距離だとわかっていただけるかな。

なにしろ天神様には「梅」がつきもの。
それぞれのところでそれぞれの種類、姿の梅を堪能できるのもいい。
土方歳三ファンにとって「梅」は特別の花だ。
「人の世のものとは見へず梅の花」 
土方が詠む梅はきっと白梅。
梅は香りを聞くものだが、土方は姿をながめるのが好きのよう。

長崎の天神さんの梅は今が盛り。
香りも色も心ゆくまで楽しめた。

山口さん、伊奈さん、それから、史談会の宮川会長さん、お世話になりました。

写真は、梅園身代わり天満宮のお守り。
身代わり天満宮は身代わりになって難を逃れさせてくれるみたい。身につけておこう。
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by windowhead | 2006-02-27 12:31 | 日日抄 | Comments(4)

久しぶりにジャズベーシスト・坂井紅介さんを聞いた

25日夜は、井上淑彦カルテット”fuse”の九州ツアーのライブ。

大好きなベーシスト坂井紅介をライブで久しぶりに聞けるということで首を長くして待っていた。

井上淑彦カルテット”fuse”のメンバーは
井上淑彦(sax)
坂井紅介(b)
田中信正(p)
つの犬(ds)

一人一人がすごい実力者たち。

井上淑彦氏のオリジナル曲が中心。
ファーストアルバム”fuse”やセカンドの”Grasshopper”の曲が中心だった。スピリチアルだが力強い曲が多い。テーマのメロディが美しい。
実力あるミュージシャンが仕掛けあうスリリングなインプロビゼーションは気が抜けない。もう体全体で聞くという感じで音を受け止めた。

紅介さん、やはりいい。
テクニックもすばらしいが切れ味がいいのに厚みのある歌うベースを弾く人だ。

こんなクオリティの高いライブは久しぶり。
楽しむというより、音を堪能したと言う感じ。
このバンドが横浜のジャズスポット「ドルフィー」なんかではしょちゅう聞けるのだからうらやましい。
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by windowhead | 2006-02-26 22:47 | 至福の観・聞・読 | Comments(0)

手紙の朗読が楽しみ!な「毎日モーツアルト」

今日(正確には昨日なんだけど…)「毎日モーツアルト」の放送時間が変更になっていたため、HD録画に失敗していた。なんで時間変更になったんだろ。

それほど興味があるわけでもなかったモーツアルトを毎日聞くという行為を案外楽しんでいる。
リアルタイムではむつかしいのでHD録画して、その日時間があるときに観るという視聴の仕方だが、放映が始まってから今日までずーと続けて楽しんでいる。

もちろんモーツアルトの音楽の多彩さもあるのだが、たった10分に詰め込まれた「モーツアルトファンによるそれぞれのモーツアルトの解説」や「モーツアルト一行の演奏の旅のようす」などがとても興味深い。

なかでも最も私をひきつけているのは「モーツアルトの手紙」の朗読。
モーツアルトはほとんどが旅にあけくれた一生のなかでたくさんの手紙を残している。
その手紙がナレーションのなかに組み込まれていて、それをナレーター・山本耕史が朗読してくれるのだが、元気な少年が旅先ざきで観るもの聞くものに感動している姿が手に取るようにわかってほほえましい。
躍動的なかわいい手紙ばかり。「愛するママへ…」とか「…ママの手に千回のキスを贈ります」なんて書き出しや結びを山本耕史の清潔感とかわいげのある朗読で聞くと、神童ともてはやされていてもまだまだママが恋しい幼い少年の旅先での気負いまでもが伝わってくる。

「毎日モーツアルト」の案内人(ナレーション)に山本耕史をキャスティングしたのには特別な理由があるのだろう。それは、声や演技力以外に、彼の生い立ちも考慮されたのではないだろうか。
幼いときから子役として観客の前に立ってきた山本耕史は少年モーツアルトの旅のようすを読みながら自分の少年時代を追体験しているのではないかな。二人がシンクロしているのでとても自然に少年モーツアルトの気持ちを感じ取ることができる。
番組の中で、もうすぐモーツアルトも思春期にさしかかるだろう。恋をしたり、裏切られたりと心の葛藤をかかえながらも音楽に打ち込むモーツアルトの手紙にも対面できるはずだ。その手紙を山本耕史はどのような朗読できかせてくれるか、とても期待している。
山本耕史のファンとしては、モーツアルトをとおして山本耕史の心の記録を聞かせてもらっているという二重の幸福を味わっている。

山本耕史くんは、今年30歳になるらしい。
モーツアルトは30歳の時、あの「フィガロの結婚」を書いたと聞いている。
ことしの山本耕史にはおおいに期待してよさそうだ。
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by windowhead | 2006-02-23 03:52 | 至福の観・聞・読 | Comments(1)

戦船(いくさぶね)の幕末維新史=軍艦「甲鉄」始末

b0009103_130376.jpg軍艦「甲鉄」始末  
中村彰彦  新人物往来社


「甲鉄」艦とは、幕末期、幕府がアメリカから買い付けた鋼鉄製の中古軍艦「ストーンウォール」号のこと。維新新政府に引き渡されてから「甲鉄」と呼ばれ、旧幕府軍討伐戦を勝利に道びき、明治海軍発足で「東」と呼ばれる事になる。
この本は、諸外国の陰を感じながらも平和であった島国が、黒船来航で外国の圧力と直面し、大きく揺れ動いていく流れを軍艦「甲鉄」の生涯を追うことで明らかにした戦船(いくさぶね)の幕末維新史。


幕末ファンにとって「ストーンウォール」という名前は特別の意味をもつ。特に旧幕府軍に興味や思い入れを持っている私には「ストーンウォール」は得体の知れない脅威の塊というイメージだった。
「ストーンウォール」の実像が見たい、実態が知りたいと思っていながら、今日までその艦影すら見たことがなかった。本誌に掲載されている写真で初めてその姿を見て愕然としたと同時に宮古沖海戦の作戦失敗の理由も理解しやすかった。
ものすごく独特の船型をしている。
普通、船の形は上底が下底より長い逆さまの台形なのだが、船全体が鋼製のこの船はなんだか平べったくどちらかというと普通の台形に近い姿をしている。喫水下がどのようになっているのかとても興味が沸いてくる姿だ。こんなに平べったい船だったから、宮古沖で野村利三郎たちは飛び移るのではなく、飛び降りなければいけなかったのだ。この異様な形の船が戊辰戦争の戦局を決定付けた。

前にも書いたが、私は宮古沖や箱舘の戦い時にこの「甲鉄」を操船していたのはだれだったのか?もしや、アメリカから回航してきた水夫たちが操船していたのではないのか?という疑問があった。
この疑問については、艦長名など確認できたが、機関長や現場の操舵員や水夫たちのことまでは書かれていなかった。

しかし、それにもましておもしろいことを知った。
アメリカから回航中のストーンウォールには2人の日本人が乗っていたのだ。幕府海軍方軍艦組一等 小笠原賢蔵と同 岩田平作。
この2人は幕府が軍艦買い付けの役割でにアメリカに送った使節団のメンバーで、買い付け組が帰国したのちもアメリカに残ってストーンウォールを受け取り乗船して日本に戻ってきたのだが、彼らが日本に着いたのは慶応4年4月。すでに幕府は瓦解していた。

ストーンウォールを一番良く知るこの2人はその後どうしたか?

小笠原賢蔵の名前は宮古沖海戦に出てくる。
幕府海軍方だった小笠原は榎本軍に合流し箱舘まで行っていたのだ。彼にしてみれば自分が持ってきた船を横取りされたようなものだろう。横取りされたのなら取り返してやる!という意気込みだったろう。「ストーンウォール」のことを一番よく知っている小笠原はアボルタージュが成功したら分捕った「ストーンウォール」の艦長になるはずだった。しかし彼が乗り組んだ「高雄」はアボルタージュに遅れてしまい、さらに漂流して上陸し乗組員は捕虜になってしまう。
もう一人の浦賀与力で長崎海軍伝習所の第一期生という経歴を持つ岩田平作のその後は本書には書かれていないが、どうも病床にあったようだ。

箱舘での海戦の様子も詳しく書かれているが、「回天」と「蟠龍」の奮戦はものすごい。もう捨て身の戦いで、最後にはどちらも動かなくなり新政府軍に火をつけられる。つくづく箱舘戦争の蝦夷共和国軍の奮戦は最後のサムライたちの意地の戦いだったのだと思い知らされる。

明治新政府の海軍のエースとなった「東」艦だが、西南戦争ころには、エースの座を新しい船たちに譲り、明治22年には標的艦として最後のお勤めをまっとうしてその生涯を終えている。
ここでまた小さな因縁を見つけてしまった。
「東」艦と一緒に廃船リストに上がった船に「雷電」という一番古い船があるのだが、実はこれは「蟠龍」なのだ。燃え残った「蟠龍」を大修理し「雷電」と名前を変えて政府に売りつけられた船。「雷電」は民間に払い下げられ捕鯨船になり、明治30年に解体された。
「ストーンウォール」に最後まで戦いを挑んでぼろぼろになった「蟠龍」が「ストーンウォール」と同じ海軍で働き「ストーンウォール」よりも長生きした。あっぱれ!と拍手したくなる。

最後に、「宮古湾春景」と題されたカバー写真の美しさをほめたい。ドラマを予感させる写真だ。
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by windowhead | 2006-02-17 01:35 | 至福の観・聞・読 | Comments(0)

長崎菜の花忌

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燃えよ剣も菜の花といっしょに
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by windowhead | 2006-02-11 11:29 | 日日抄 | Comments(0)

小さな水族館のほのぼのバレンタイン企画

b0009103_23555874.jpg長崎市内の網場という漁港近くに「長崎ペンギン水族館」がある。

都会の水族館のように大掛かりな海のトンネルやイルカショーなどはないが、この長崎ペンギン水族館は、ペンギンの飼育や人工孵化に関しては、世界的に有名な水族館なのだ。

3年前に死んじゃったが「ぎんきち」という世界で一番長寿のキングペンギンが飼育されていた。
「ぎんきち」は昭和34年に南氷洋で捕獲されて捕鯨船にのって当時の長崎水族館に来て以来39年9ヶ月5日も長崎で飼育されていたスーパー長寿ペンギン(キングペンギンの平均寿命は20年)だった。

この水族館にいるペンギンは8種類。日本で一番多くの種類のペンギンがいるのもここ。
そして、秋から春先にかけて蝶ネクタイを付けたペンギンが屋外をパレードするイベントがあるのだが、これ、おとなもつい引き込まれるほどほのぼのとしたイベントだ。

その長崎ペンギン水族館の バレンタインデー記念イベントは
 「ペンギンとラブラブ記念撮影」
カップルでペンギンと記念撮影ができる!という企画。
ペンギンファンにはたまらないイベントだろう。

2月初めから「コガタペンギン」も初お目見え。ペンギングッズコレクションの常設展示室もできた。
私は、どうも「長崎ペンギン水族館」が大好きのようだ。
とにかく何度行ってもロケットのように泳ぐペンギンに感動するし、ほのぼのした気分に浸れるのだ。
長崎周辺のカップルのみなさん、11,12日はバレンタイン記念イベント、絶対お勧めですよ。



b0009103_02572.jpg今日は、仕事関連で、長崎の西側、西彼杵半島の付け根のところにある三重という漁港に行った。風は冷たいが日差しは温か。海がキラキラ輝いて美しい。
この漁港は長崎ブランド魚「ごんあじ」の出荷地。
たしかにおいしいのです「ごんあじ」。
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by windowhead | 2006-02-10 00:02 | 日日抄 | Comments(1)

伊東カッシー、長崎でなにしてた?

白牡丹さんの幕末クリップ記事のなかに、かの有名(??一部ではかなり)なフルベッキ師弟の写真のことがクリップされていた。
記事にかかれているように、この写真は撮影者上野彦馬関係の記録で、フルベッキとその教え子たちの記念写真で、明治2年、フルベッキが東京に移るとき「致遠館」の教え子たちと一緒に撮影したもの。ということは、物理的にも幕末の志士たちの写真ではないわけ。

フルベッキという名前を久しぶりに聞いた。
と、同時に、フルベッキがらみで、新選組ファンの私にも興味深い話を、過去に聞いたことを思い出した。
ちょうど、「落花は枝に還らず」を読んで、秋月悌次郎が長崎にきていたんだって!と、おどろいていたころ、「新選組の伊東甲子太郎も長崎にきたよ。」という話を聞いたことを思い出した。

伊東カッシーが新選組に入るため京都に着いたのは元治元年12月はじめ。この日から、土方君の頭を悩まし続ける存在になるわけ。
翌年2月23日に山南さんの切腹。その翌年慶応2年の1月末から3月下旬まで伊東カッシーは、近藤さんについて広島に出向き、近藤さんより15日も遅くかえってきている。その間に土方君は勘定方河合耆三郎くんを切腹させている。
カッシー、その翌年正月早々永倉君や斉藤君をさそって島原で遊んで、隊規を破って居続け事件。それも謹慎程度の処罰ですんだら、1月18日には、お仲間新井忠雄くんといっしょに九州遊説の旅に出ている。なんとも自由勝手な素行だこと。
遊説の旅、永井さまと途中まで一緒して、幕府御用船に便乗して、大分に渡り、徒歩で九州横断し、大宰府で、真木外記なんかに会って「新撰組とは分かれるつもりよ!」と話したり、福岡で中岡慎太郎と会ったという記録もあるようだ。この間に和歌もたくさん詠んでいる。
で、2月20日ころから長崎をめざして、長崎街道を西に!

ついに、2月25日長崎に到着したようだ。
その日から3月4日まで、他所の地では1泊しかしていないのに、長崎には1週間以上も居続け!

英語好きのカッシーは、当時長崎にいたフルベッキを尋ねたりしたのではないかなあ。このころ、フルベッキは、大隈重信が五島町の諫早屋敷を借りて開いていた英語塾「致遠館」と長崎奉行所の洋学所をかけもちで教えていたらしいので、コンタクトは取りやすかったはず。このとき学んだことが、新政府基本政策の建白書の中に活かされているのではないかとも言われている。

同じ頃、会津の山本覚馬が武器調達の使命を帯びて長崎に来ていたので、当然カッシーはアポイントを取ったでしょうね。
覚馬はこのとき、銃だけでなく、弾の製造機なども発注しているわけで、この時の借金が払われていないため、中にはいっていた長崎の豪商足立仁十郎がドイツの武器商人から訴えられることになる…この話はまた他の時に書きます)

おしゃれな都会人を気取ったはずの伊東カッシーは丸山で遊んだだろうか?
遊んでいたらそのときの遊女にカッシーってどんな男だったのか聞きたい。
案外、純で遊びには晩生の人だったのではないだろうか。

土方ファンにとっては鼻持ちならない伊東甲子太郎だが、小説「地虫鳴く」(木内昇著)を読んでから、少し彼の生い立ちや人となりに興味が沸いてきている。
いっそ、ずーっと長崎に居続ければよかったのに…。

「伊東甲子太郎」も長崎に来ていたなんて!
当時の長崎はいったいどんな世界だったのだろう。
地元にいて、その雰囲気がつかめないでいる。おおよそ並外れたテーマパークのような場所だったのだろうね。
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by windowhead | 2006-02-07 16:00 | 新選組!な人々 | Comments(3)

僕ヒーロー

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カッコつけてるイワトビくん。長崎ペンギン水族館にはあたらしい仲間コガタペンギンも増えていた。
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by windowhead | 2006-02-06 11:29 | 日日抄 | Comments(0)

箱舘戦争で気になっていること>>誰が「甲鉄」に乗っていたの?

箱舘戦争でずーっと気になっていることがあるのね。
昔から気になっているのだけど、私は戊辰戦争を旧幕府軍の側からしか勉強していないので、気になりながらもホームページやブログに書く勇気がなかったんだけど、最近、「会津葵と足立仁十郎について」以来知らないこと、気になることは、オープンにして、誰かに教えてもらうことが、解明の一番の近道だということを体験しちゃったので、もう言っちゃいますね。

それは「甲鉄」艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)のこと。
徳川幕府が慶応3年アメリカからの購入を約束した日本初の鉄板装甲の軍艦。
この船が日本に回航してきたときには、戊辰戦争が勃発していて、アメリカは局外中立の立場を取ってこの船の引渡しを保留していたけれど、慶応4年(明治元年)末ごろには、局外中立が撤廃され、翌年2月、ストーンウォール号は新政府に引き渡されるのね。
そして3月には新政府軍艦隊の艦船「甲鉄」として蝦夷共和国軍討伐のために、品川沖を出航、途中3月21日に宮古沖海戦、3月28日に青森港に入って、4月9日の新政府陸軍の上陸をサポートし、函館戦争へと突入していくわけだけど、

この「「甲鉄」を操船していたのは、いったい誰だったのか?」

これが、私の疑問なんですね。
引渡しから、出航まで1ヶ月くらいしかないし、日本で始めての鉄板装甲の蒸気船、それも排水量1360トンという大きさ。排水トンでは開陽丸より小さいが、新政府軍でその排水トンクラスの軍艦は薩摩藩の「春日」くらい。その春日だって木造船。たった1ヶ月で、わが国で初めての鉄板装甲・1300トンクラスの軍艦を動かすすべての技術を習得できるものかしら?
宮古沖海戦でも函館戦争でも注目の船なのに、そのときの乗船者の名前が歴史物語などにも出てこない。私が読んだ本の中では、1988年に出版された「だれも書かなかった箱舘戦争」(脇哲著)の中に「船長・中島四郎」の名が上がっていただけ。
中島四郎は長州人。なら、乗組員は長州人なのかな?長州の軍艦といえば木造スクーナー型蒸気船の丁卯丸125トンがあったが、鉄板装甲の1358トンの「甲鉄」艦とはあまりに違いすぎているので、丁卯丸の乗組員がすぐさま操船できるのか疑問だなあ。

「甲鉄」艦だけは、なぜかブラックボックスのように、乗船していた人の気配を掴みきれないのでいるのです。

実は、思うのです。
新政府軍に引き渡されてからも甲鉄艦には、アメリカから回航してきた外国人が乗り組んでいて、実際の操船は彼らがしていたのではないかなあと。
ほら、試乗期間というか、試運転というか、そんな名目で回航して来た時の船長、機関長から一般乗組員までが同船して日本人に指導しながら北に向ったのではないのかしら。
普通の航海は日本人に指導しながら進み、実戦になると操船になれている外国人が操船し発砲したのではないかなあ。
でも、まさか内戦に外国人が乗った船で闘ったとは言いにくいので一応船長は「中島四郎」に就任してもらったと。(中島四郎って、その前は丁卯丸の船長ではなかったかなあ。)

まあ、これは、あくまでも私の知識の範囲からの推測です。
私の知識は、旧幕府軍(蝦夷地共和国軍)側に偏った知識ですから、新政府軍に関する詳細はぜんぜん知りません。
「甲鉄艦」の乗組員について詳しいことを知っている人に教えてもらいたくて、恥ずかしながらの推測をかいてみました。

そんなことを色々考えていたら、今年初めにすごい本を見つけました。
『軍艦「甲鉄」始末』  中村彰彦著 新人物往来社 2005.12.25初版の新刊です。
昨日届きました。さっそく読み始めましょう。
さてさて、これで私の疑問は解消するかな?



===========(2006.4.10)
一風斎さんがコメントで以下のご指摘をしてくださいました。本文を修正のうえ、下記にご指摘内容を転載させていただきました。

なお、1つだけ指摘します。
「甲鉄」は元はアメリカ(最初は南軍の)衝角艦「ストーンウォール」ですが、「ストーンウォール・ジャクソン」ではありません。
両艦とも南軍の艦艇ですが、後者は河川用の衝角艦で、外輪(side-wheel) 駆動です(「ストーンウォール」=「甲鉄」は、2軸スクリュー駆動)。

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by windowhead | 2006-02-03 02:31 | Comments(8)

長崎燈會

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町はランタンでいっぱい
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by windowhead | 2006-02-02 18:46 | 日日抄 | Comments(0)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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