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壬生浪士組のお手当だって払っていたかも?足立仁十郎

先日、南島原市の歴史愛好者の方々の前でお話する機会を得たので、そのレジュメとして、足立仁十郎と会津藩の関係を年表にまとめてみた。足立家の出来事、会津藩のできごと、長崎や幕府の出来事などを年表に起こしてみるとなかなか興味深いし、一人の人物を取り囲む歴史的背景がよくわかっておもしろい。

その中でも、仁十郎の献金がどの時点で用立てられたかということが興味深かった。

会津藩が長崎会所を通して清国に和人参(朝鮮人参)を輸出し始めたのは、天保元年。8代容敬公の時代。そのころまでの会津藩は、永年にわたる借金の返済もすみ殖産興業にまい進していたころかな。それから慶応3年までの約30年間、ほぼ毎年清国に向けて和人参を輸出している。和人参輸出の定期的な収入は会津藩の大きな収入源であり、藩の財政の支柱の一つだったことがこれらのことからもわかってくる。


記録では、足立仁十郎は、安政5年から万延元年ごろ、会津藩に1万両を用立て(献金)ている。
その頃の会津藩主は、9代容保公。安政6年にはそれまでの江戸湾砲台警備から蝦夷地開拓警備に転任。会津藩内では、安政の大地震の後でもあり、農民による打ちこわしや一揆も起きている。
1万両の献金がどれほど会津藩にはうれしかったかは、その後の仁十郎お取立てでもわかる。献金の年、50歳の仁十郎は、会津藩人参捌方用足・足立監物として、5百石扶持で会津藩士に取り立てられている。

次の用立て(献金)は、それから、すぐ後の文久2年。なんと3万両を用立てている。
文久2年といえば、会津藩主容保公に京都守護職の任が下った年。
幕府は、京都守護職の役料として5万石と旅費3万両を貸与した。
京都守護職になれば、朝廷や公家との接触も多く交際費などもかかるし、守護のための武器や兵力も自前で備えなければならない。藩兵の出張費や留守家族への手当てなど、さまざまな出費がかさむ。この出費のために、藩内は守護職拝命の賛否で揺れ動いたほどだ。

会津に伝わる「しぐれ草紙」には、資金調達のエピソードが書かれている。
京都守護職拝命はたいへんお金のかかることで、藩は、人参方勤務の酒井文吾を2万両の資金調達のため長崎に向わせる。文吾は、長崎で足立仁十郎に1万両上乗せして3万両の用立てを頼むが、仁十郎にしてもすぐに3万両がそろうわけでもない。仁十郎は花月で文吾をもてなした時、酒の席の勢いで8杯のギャマンの大杯をみせ、これを全部飲み干したら3万両を用立てましょうという。文吾は酒に弱いことを仲のよかった仁十郎は知っていた。その席には長崎遊学中の神保修理もいた。文吾は、修理に証人になってもらい、死ぬ気で飲み干し、3万両とギャマンの大杯を獲得した。ということらしい。

足立仁十郎はこのとき、幕府が会津藩に貸与した金額と同額を用立てていることになる。
3万両とはどれくらいのお金かと言えば、
・千両役者という言葉があるが、年間千両を稼ぐ役者と言うことらしい。千両は今の金額で2、3億円くらいらしい。ということは、一万両は2,30億円、3万両となると60億から90億円となる。
数年前の1万両を合わせると5年くらいの間に100億円くらいの金を用立てたことになる。
これが、表向きは借金だが、実際には帰ってこない献金なのだ。

新選組ファンとしてこれをみると、芹沢鴨や近藤、土方たちの押借りがかわいらしく見えてしまう。
会津藩御預となった壬生浪士組のお手当ても案外、この仁十郎の献金から出ていたのかもしれない。
少なくとも、仁十郎の献金がなければ、浪士集団を抱えるほどの余分な資金はなかっただろう。

その後も、ちいさな献金はひっきりなしだったのではないかなあ。
さらには、慶応2年か3年、人参代金3万両を前渡して、人参は送られてこなかったという契約不履行という仕打ちにもあっている。
しかし、仁十郎は斗南まで同行して最期まで会津と共に生きている。

幕末の会津藩の資金的側面を支えた人参貿易とそれを一手に引き受けていた長崎の豪商・足立仁十郎のことは、もう少し知られてもいいのではないかと思えてくる。
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by windowhead | 2006-06-27 15:23 | Comments(2)

あらら~、勘太郎がいないなんて…何の病気?

朝からわくわくしながらJRに乗って「18代目中村勘三郎襲名披露」(於博多座)に行った。
東京や京都、大阪あたりでは昨年すでに終わっている襲名披露が九州は1年遅れ。
それでもとにかく博多まで行けば観れるのだから幸運なほうかもしれない。
席も友人のはからいで花道近くのとてもいい席で、本来なら至福のひとときを過ごす予定になっていたが、残念ながら、不満の多い観劇になってしまった。

なぜなら、この日、お目当ての勘太郎が急病とかで、すべての演目を欠席。
だから、昼の部の目玉でもあるような中村親子3人の連獅子も七之助と勘三郎の2人。
文七元結で、川端のシーンでの勘太郎と勘三郎の掛け合いをみたかったのに、これも七之助が演じた。(「文七元結」軽妙でたのしかった。長兵衛は勘三郎にぴったり。)


急病だから仕方がないのだが、高いお金をだして、準備万端整えて出かけて、お目当ての俳優がいないお芝居を観るむなしさは大きく残った。
いくら勘三郎が素敵でも、勘太郎が見たかった私には半分の満足しかない。

舞台を休むほどの病気となると、それも気になる。
明日かあさっては千秋楽。それまで持たなかったのだから風邪程度の病気ではないのだろう。大丈夫かなあ。

それでも、夜の部を買ってなくてよかった。
この博多座での公演で一番観たかったのは夜の部の「雨乞い狐」だった。
行く前は席さえ空いていれば、そのまま居残って夜の部も観ようかと思案していたのだが、どうしてもあと2万円の追加は痛いのであきらめていた。
ああ、助かった。夜の部まで買っていたら、泣くに泣けない。
勘太郎のばかちんめ!

~~~~事後報告~~~~
ぶるぅとさんのコメントで、勘太郎の休演の理由が、数日前の舞台で膝の靱帯を傷めたらしいことがわかりました。
今朝(27日)の日刊スポーツにも続報があり、7月も安静治療が必要で、7月からの勘三郎襲名披露東回りも休演とか。
早くよくなって、またどこかで「雨乞狐」を見せてもらいたいと思います。
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by windowhead | 2006-06-26 03:03 | 至福の観・聞・読 | Comments(2)

佐々木只三郎の鎖帷子が出てきたらしい

久しぶりにブログを渡り歩く時間ができた。
「白牡丹のつぶやき」さんの幕末情報のなかで、「佐々木只三郎の鎖かたびら発見 京都で10月に公開 戊辰戦争で着用か」という京都新聞電子版(6月15日)の記事の抜粋が紹介されていた。

内容をかいつまんでみると、只三郎が戊辰戦争で着ていたと見られる、佐々木家の家紋入りの鎖帷子が発見された。
亀山市の民家に保存されていたものらしい。
この鎖帷子は、麻布で覆われた冬用で、佐々木家の家紋ひし形の「四つ目結」が紺で染め抜かれている。弾痕を縫い直した跡が多数あるほか、右脇腹に血痕、左肩に刀で切られたとみられる裂け目が残っている。 (京都新聞記事抜粋)とのこと。
写真も掲載されていたが、右わき腹の血痕のようなものが生々しくみえる、
すごいものが見つかったなあ。

佐々木只三郎は、鳥羽伏見の戦いの中、1月6日、八幡堤で右わき腹に被弾し、部下と一緒に紀州に落ち延びたが、その傷のために死亡したらしい。
小太刀を執らせると敵なしと言われた剣客であった只三郎。鳥羽伏見の戦いの最中も、甲冑を脱いで斬り込んでいた只三郎は、近所の酒屋に飛び込んで酒を所望し、そのお礼として襖に和歌を書き付けたという。

「世はなべてうつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな」

戦さの最中に詠んだ歌とは思えないほど、美しい歌。
(個人的には、幕末維新の人々の和歌の中で、一番すばらしいと思っているのだが…。)
結局、この和歌が彼の辞世になる。

この和歌が書かれた襖は、昨年秋、霊山歴史館で催された「「龍馬をめぐる人々」展の中で展示されていた。戦場にあって、落ち着いて書く暇もなかっただろうから、一気に書き飛ばしたような乱れや勢いの激しい文字だったが、やはり上手かった。しばらく、その前で動けなくなるほどだった。この時の展示のなかで、龍馬のものより、この襖と、同じく只三郎の筆による条福が一番印象的だった。それほど、歌も書も優れていた人だったのだ。

今回見つかった鎖帷子は、霊山歴史館の秋の企画展で公開されるらしい。
そのとき、おそらく辞世が書かれた襖も再展示されるのではないだろうか。

血に染まった鎖帷子と襖2枚に書かれた和歌。
佐々木只三郎の壮絶な最期を見せ付けられるような展示になることは間違いなさそうだ。

ああ、秋にはぜひとも京都に行かねばなるまい。
そういえば、着物仲間と京都行きの企画があったぞ。この企画実現させなければ。
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by windowhead | 2006-06-18 15:26 | 新選組!な人々 | Comments(1)

「幕末の桑名」 重工業と金融業の基礎を築いた新選組隊士たちがいた。

b0009103_3374985.jpg「幕末の桑名 ~近代ニッポンの基礎を築いた桑名のサムライたち」
バーバラ寺岡/著 桑名市教育委員会 ・新人物往来社/出版

以前の記事『「三菱長崎造船所」初代所長は新選組隊士だった』でも書いた箱舘新選組隊士・大河内太郎こと山脇隼太郎正勝をはじめ、戊辰戦争を藩主・松平容敬公といっしょに「賊軍」として戦い抜いた桑名藩士たちの生涯を追った一冊。

山脇正勝のひ孫であるバーバラ寺岡さんの家に受け継がれた初公開の資料がベースになっているようだが、写真も多く、資料の原本にも強く惹かれる。

私も、山脇正勝が初代所長を勤めた事業所の広報マンをやっていたので、山脇正勝には格別な興味がわく。初代所長の写真はなかなかハンサムだったこと。戊辰戦争を戦ったこと、その戦さで小指をなくしたことなどは、知っていたが、まさか「賊軍」それも新選組隊士であったとは夢にも思わなかった。明治も17年になっていたとはいえ、土佐藩士岩崎弥太郎が社長の会社の重役が元新選組隊士とは、だれが想像できただろう。ましてその勤務地が長崎なのだ。

この本の表紙に掲載されている若者の集合写真。左端が山脇正勝。刀に添えた左手の小指が欠けている。
右から2人目も元新選組隊士神戸四郎こと高木剛次郎(貞作)。この二人は土方が率いた箱舘新選組で最後まで戦い抜いて弁天台場で捕虜となり、解放後、アメリカに渡ってビジネススクールに学んだ。帰国後、山脇は「三菱」で重工業の基礎をつくり、高木は「三井」で金融業の重鎮にまでなっている。
山脇と高木の間に座る白い着物の若者は立見鑑三郎。のち、乃木大将より優れた陸軍大将だといわれた立見尚文だが、新選組ファン、特に土方ファンには、幕府脱走軍で土方の指揮下で戦った桑名藩士の名前として記憶されている人だ。明治政府陸軍で頭角を現す立見の戦さ上手は、土方の影響が大きいのではないだろうか。少なくとも、一緒に戦った土方の峻烈さは記憶に残っていただろう。

この3人は容敬公の小姓で、写真に写った明治3年ごろにはまだ22,3歳。土方より15歳近く若い。土方も当時としては近代的な顔をしているが、山脇正勝はもっと現代人に近いハンサムだ。

山脇正勝の興味深いエピソードは
・洋行帰りのスマートな外見を持っているが、中味は武士のまま。娘たちの名前にその性質が現れている。崎子、瓊子(たまこ)、哲子、勝子。てつ、たま、かつ…なんともかわいげのない名前だこと。
・高島炭鉱の社長も兼任していたが、荒くれ者の炭鉱夫たちに慕われていたらしく、正勝が経営していた15年間が高島炭鉱は労使がまとまり、もっとも業績を上げていた。
・部下には「酒はいくら飲んでもいいが、仕事はがんばってやれ」と言っていたらしい。上記の高島炭鉱の話やこの言葉を見ると、なんとなく箱舘での土方が連想される。
・三菱長崎造船所資料館には、当時では珍しかった複式簿記の会計簿が展示されているが、これもアメリカで学んだ山脇の考えだろうか。もしかすると、いっしょに渡航しビジネススクールで会計学を身につけたもう一人の元新選組隊士・高木貞作がアドバイスしたものかもしれない。

そのほかにも、仙台で蝦夷地に渡る決意をした容敬公は髪を切り、銃を抱えて兵卒姿になったこと、藩主とともに蝦夷にいけなくなった桑名藩士に「新選組に入れば同行を確約する」と土方が助言したことなどは、土方ファンには有名なエピソード。

明治に名を残した実業家や軍人たちのエピソードの中に、土方歳三の名前が登場すると、彼が間違いなくつい130年ほど前に生きていた人であり、新選組が間違いなく存在したことを再確認する。

それにしても、近代の扉をこじ開けたのは薩長だろうが、彼らが近代を作ったわけではないことがこの賊軍・桑名藩士たちのその後の生き方でも知ることができる。旧幕府や藩の人材の豊かさ、人格の高さを改めて知らされることになった。

幕末ファン、新選組ファンにはぜひ読んでもらいたい本。
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by windowhead | 2006-06-13 03:38 | 至福の観・聞・読 | Comments(3)

いよいよ始まる

ワールドカップ。

共同通信配信で「番狂わせは「日本」 W杯調査、トップの35%」という記事があった。
番狂わせでもなんでもいいよ。できるだけ多くのゲームを日本代表に戦ってほしい。

TVワイドショーなど女性向け番組では、相変わらずイケメン選手の話題でもりあがっている。
たしかに、そんな楽しみ方もあるだろう。前回の空前のベッカムフィーバーのようなことが、今回は誰に集まるのだろう。 まあ、どうでもいいことだけど…。

それより公式のユニフォーム、それも移動用のものが気になる。
日本は明るいグレーのダンヒルの3つボタンスーツ。サムライブルーにドットのネクタイだが、どうも、このグレーのスーツはあまり素敵に見えない。タイの色と調和がいまいち。前回の紺のほうがよかったけどなあ。

イングランドは、エンブレムの着いた紺のジャケットのようだ。やっぱりなんとなく格調高いし、おしゃれに見える。あの下町のチンピラのようなルーにーがこの服を着たところを見たいものだ。

イタリアは、シャツもジャケットも同色の墨色っぽいスーツ。タイまでも同色にしていた。細いタイの中心に1本縦線があったようだ。あの田舎の王子様・トッティがものすごく上のほうにタイクリックをつけていたけど、あれが流行るのはいやだなあ。

YAHOOのニュースでオランダ代表のドイツ入りの写真があったが、オランダのユニフォームはすっきりしていて洗練されているように見えた。

着こなしチェックは私のワールドカップの別の楽しみのひとつ。
しかし、日本代表が勝つまではそんな楽しみかたをする余裕はないなあ。


とにかく、オーストラリアのオージービーフのような肉体を翻弄して、針の穴を通すような華麗なシュートを!!
この際、だれがシュートしようがかまわない。
そりゃあ、中村俊輔に流れの中からシュートを決めてほしいけれど、それは、ブラジル戦に残しておきたいし。まずは、東洋のファンタジスタって、こんなに魅力的なプレーをするんだよということを、オージービーフたちに思い知らせて、2-1で勝つ。
中村俊輔は、よくイメージするという言葉を使うが、私も、そんなシーンをイメージして、信じて応援したい。

b0009103_15333078.jpgさきほど、こっそりと「 FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW 」のDVDを見た。
実は、「がんばらんば」のDVDを買ったときいっしょに買ってしまったもの。俊輔のプレイを見たかったが、これはオフの日の彼と彼が所属するセルティっクがあるグラスゴーの様子を写真で追ったものだった。
写真集など似合わない普通の男の子というイメージの中村俊輔だが、そのナチュラルさがとても好ましい。この青年が世界のファンタジスタの一人とは信じがたい。そんな普通っぽさ。しかし、彼のインタビューはやはり魅力的。この人のインタビューは独特のものがある。優れた職人が、技術を独特の表現や比ゆで伝えるようなわかりやすさがある。反面、精神論吐かないクールさが物足りないという人もあるのだろう。でも、精神論で逃げない正直さがいい。
まあ、好きな選手はなにをしてもよく見えるものだから、これくらいにしておこうっと。

オーストラリア戦に勝つまでは、サムライブルーの紐をとおしたアディダスのシューズを絶対に履き続けるぞ。かってなおまじない。
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by windowhead | 2006-06-09 15:34 | 紙のフットボール | Comments(0)

ついに花ちゃんがドラマ化

今朝のラテ欄を見ていたら、おやっ?という記事にぶつかった。
今日放送のドラマあらすじだが、日テレ系で「保育士探偵危機100発 今夜もよろしく!!」というのが目にとまった。

保育園と探偵といえば、わたしの密かなヒーロー「花咲慎一郎」だ。
柴田よしきが書く「フォー・ディア・ライフ」「フォー・ユア・プレジャー」そして「シーセッド・ヒーセッド」の主人公。元刑事。今は新宿の無認可保育園の園長センセで、園の万年赤字を解消するために、危険な仕事もひきうけざるを得ないなんでも屋探偵さん。
中年にさしかかっている花ちゃんがかっこ悪く身体を張って仕事する姿は力強くすがすがしい。花ちゃんを支えてくれる底力のある女性たちが魅力的な作品でもある。

ドラマのあらすじを読むと、どうも主人公は花咲慎一郎だ。
となると、見ないわけにはいかない。

花ちゃん役は、高橋克典。なるほど、それなりに、納得がいくなあ。いいかも。
実は、昔、新選組を配役すると、土方役は高橋克典っていいかもなあと思っていた。
その後、サラリーマン金太郎になってかなり肉体系路線に行ったが、若オヤジのセクシーさがあるよねえ。

で、もっと気になるのは、凶暴で美形のヤクザ若頭、山崎役だ。
花ちゃんシリーズでは、欠かせない存在。
山崎を描いたアナザーストーリー「聖なる黒夜」のファンとして、心通じている「ASYLUM~山本耕史ファンによるつれづれ日記~」のひいずさんと、山崎役を山本耕史:土方歳三君に!と盛り上がった時期もあったぞ。
気になる山崎を演じるのはなんと、吹越満:大鳥ケースケ君だ。

おいおい、吹越氏に美形を求めるのはちょっと無理だ。
でも、山崎の冷徹さやエキセントリックを演じるのに、吹越氏はぴったりだ。
絶対に、吹越風へんてこ山崎を演じてくれそう。

2時間ドラマなので、どのような内容になっているのか、気になるが、花ちゃんシリーズが陽の目を見たのはうれしい。

新宿鮫よりずっとカッコイイ園長センセ探偵を楽しみにしてみよう。
天使の寝顔やもみじのおててのためにがんばれ!エンチョセンセー!
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by windowhead | 2006-06-06 13:14 | 男たちの眺め | Comments(0)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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