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幕末史の新しい視点「幕臣たちと技術立国」

b0009103_4494681.jpg「幕臣たちと技術立国~江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢」佐々木 譲著 集英社新書
5月ごろ白牡丹さんから紹介されていた「幕臣たちと技術立国」をやっと読むことができた。

幕末史のなかで、ほとんど取り上げられなかった先進的な技術系幕臣たちの知性と行動から幕末明治の本当の近代化の基礎がどこにあったかがあぶりだされている。
幕末史の新しい視点であり、これまであまりにもおろそかにされていた切り口だと思う。


「明治維新こそが、近代の「夜明け」であるという認識が一般の日本人にとってごくあたりまえの通念である。が、その通念が多くの日本人を大きく誤解させているのではないか。」
「明治維新が“夜明け”だとするなら、それ以前の時代には光はなかったのか」
「明治維新によって突然に、日本はそれまでの前近代から近代へと移行したのか」
「小説やテレビが繰り返し語るように、徳川幕府の体制は硬直化し、学問も技術も遅れ、ペリー来航までは、本当に海外からの情報も技術も開明的な考えも入ってくることはなかったのだろうか。」
このような疑問をずっと抱き続けてきた著者が、幕末期の3人の技術系幕臣を取り上げて、彼らの生涯と働きを検証することから、日本の近代化は幕末期の技術系官僚たちによって準備され、始まっていたことを証明していく、新しい視点の幕末研究本。

取り上げられている3人は、
技術に明るい先進的な行政官だった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍
浦賀奉行与力でペリー艦隊に最初に接触し、最後までサムライとして箱舘で討ち死にした中島三郎助、
オランダ留学で技術と国際法を学び、蝦夷地に独立共和国樹立を目指し敗れた榎本武揚


江川英龍の先進性は、以前読んだ「未完の多摩共和国」で思い知らされたが、ペリー来航以前から独自の海防論を持って、積極的に西洋式産業技術を導入して洋式銃や大砲を製造したり「反射炉」を築造したりしている。また、新しい知識や人脈のためにオープンな私塾も作っている。あのアームストロング砲を製造した佐賀藩の「反射炉」も江川英龍の図面と手ほどきで築造されたということは初耳だった。

同様に中島三郎助に関してもおどろくような実績が残っている。
浦賀与力時代に日本で最初に西洋式帆船を建造している。吉田松陰や桂小五郎は、そのころ中島三郎助に教えを請うている。桂小五郎などは、40日も三郎助宅に居候して、洋式帆船の建造を見学しているほど。その後、長崎海軍伝習所1期生となり、造船学、蒸気機関学、航海術などを修めている。中島はその優秀さで伝習所にもう1年残ってさらに高度な技術を修めることになり、勝海舟は習熟度が低かったため留年となったとの記録が残っているのだ。

榎本武揚についても彼が若い頃から晩年まで、第一級の技術者であり、明治維新では優秀な外務官僚だったことがわかる。


司馬遼太郎の小説が描く日本の夜明けに活躍する志士たちの話は、たしかに夢とロマンに満ちている。しかし、それだけを歴史だと信じるのはあまりに幼稚過ぎないだろうか。
たしかに、それが小説であることを認識して読んでいる人もいるだろうが、多くの一般人は司馬遼太郎の歴史小説を史実と取っているというのが現状。
そろそろ、司馬マジックから解き放たれ、ニュートラルな視点で幕末維新を見直してもいい時期なのだと思う。そのときの視点に、思想的な近代化ではなく、実質の近代化はどのようにして進められてきたかを置くのは興味深いやり方だと思う。

たしかに、薩長土肥が強引に夜明けの扉をこじ開けたが、その後の近代化の方法や技術、それに従事する人材をもたなかった。その基礎となるものは、幕末期に幕府によって育成された幕臣たちによって受け継がれ伝えられてきていたのだということが、具体的にわかる。
日本の近代化が速やかに進んだのは「江戸時代の蓄積」があったからで、新政府に近代性の蓄積があったわけではないのだ。
明治維新の建国の最中に倒幕の中心人物たちが2年近くも日本を離れてしまうという摩訶不思議な「岩倉使節団」というものがなぜ行われたのかということも、なんとなく見えてくるからおもしろい。

歴史は過去のものだが、普遍のものではない。その時代時代で、新しい見方や人物が掘り起こされるべきものだと思う。

小説家だが、最近の佐々木譲氏や中村彰彦氏の仕事は目が離せない。
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by windowhead | 2006-07-20 04:54 | 至福の観・聞・読 | Comments(2)

W杯ぼけ?から、そろそろリスタート

昨日の明け方、イタリアの優勝で2006W杯は終わったが、連日の早朝というより真夜中起きで体調はイマイチ。時差ぼけ状態が残っている。

W杯が終わって、結局一番印象的だったのは、ジダンでもイタリアの固い守備でもヒデの引退でも俊輔の憔悴しきったインタビューでもなく、あの臙脂とグリーンのユニフォームのポルトガル代表だった。
なんだろう?あのサッカーの感じが好きなんだろうか。
たしかに、フランスやイタリアやイングランドのプレーよりアルゼンチンやポルトガルのサッカーに、ワクワクしていた。
ポルトガルチームに、なんというか、不思議なすがすがしさみたいなものを感じている。

そこに、フィーゴがいた。

あのフィーゴにすがすがしさを感じるなんて…。
今回のフィーゴは、ずーっと脇役に徹していた。
ジダンやカーンたちと同じように、彼も最後のW杯なんだろうけど、ジダンほどの重さで語られていなかった。
プレーでも、フランスはジダンを中心にジダンのために選手があるような戦いだし、解説やマスコミもそういっていた。
ポルトガルでは、あの華麗なドリブラーで強靭なオレ様男が、自分が輝ける瞬間を他のプレーヤーに手渡しているように見えた。それになんの不満もなく、自分の意志でそのプレーをしているようにみえた。
気持ちのいい世代交代(フィーゴはまだ譲らん!というかもしれないが)シーンを見たと言うより、ポイントポイントでしっかりとかなめになっているフィーゴがその役割を楽しんでいるようにさえみえた。

ポルトガルに日本代表を重ねてみた。
私はきっと日本代表に今回のポルトガルのようなチームを期待していたのだと思う。
ジダンのようなヒデではなく、フィーゴのようなヒデを期待していたのだろう。
それは、ヒデにとっては不服な立場かもしれないけど、結果的にはジダンは後味の悪い終わり方を残し、フィーゴは本人は満足ではなかっただろうが、すがすがしい印象を残して去った。

ポルトガル対フランス戦で、試合終了後、抱き合ってお互いの善戦をたたえるジダンとフィーゴの姿は、このW杯の中でのもっとも美しいショットだったが、ジダンの退場劇で瑕がついた。
もう1つの印象的なショットは、ポルトガル対ドイツの3位決定戦。カーンの鉄壁の守備に向って何度も何度もシュートを打つクリスティアーノ・ロナウドの泣きそうなほど必死の形相。
イエローカード、レッドカードが飛び交う激しい対オランダ戦。レッドで退場になったデコが試合が気になってか、最後までスタンドの下の端っこのほうに座って観戦していたのが我が家ではほほえましい話題になった。

なんだかんだいいながら結果的に、印象に残っているのは臙脂とグリーンのポルトガル。ナイキ製というのが気に食わないが、あの独特の臙脂にグリーンを効かせた配色は大会中一番おしゃれなユニフォームだった。


ヒデの引退については彼が決めたことだから何もいうことはない。
ただ、その引退をあまり美化しないで欲しい。花のうちに身を引くのも生き方なら、最後までその世界で生きていくのもすばらしい生き方だ。私はどちらかというと、今でも現役を張る三浦カズのサッカー人生にエールを送るほう。
ヒデの引退メッセージを教科書にというばかな企画もあるようだが、少年少女の生き方のお手本にするならカズのほうだろう。大好きな世界で最後まで自分の仕事をまっとうする生き方のすばらしさから教えるべきだから。
ヒデには、なにを期待しようかなあ。
一生生活していけるぶんのお金はすでに稼いでいる(ヒデの所属事務所の女社長談)というアドバンテージを持って新しい世界に入っていくのだろうが、ビジネスの世界はそれほど甘くないしきれいでもない。わりと純粋そうなヒデが失望することのないように祈っている。
ヒデはつっかかるような無表情より笑い顔が絶対に魅力的だ。
グッチの草履をはいたり、ピンクスカーフを巻いたり不思議な成田ファッションを魅せてくれたヒデだが、残念だったのはどのファッションでも顔が皆同じ無表情だったところ。ヒデはリラックスした笑顔が魅力的なのに…。

最後に、俊輔。
W杯に一番熱い想いで挑んで、ブラジル戦で消えてしまった10番。
それでも、日本のサッカー少年たちにはなくてはならない憧れの存在。
憧れの存在は不死鳥のように蘇らなければならない義務がある。
スポンジのような吸収力のある中村俊輔だから、もっとちがった大きさに成長してくれそう。
日本では、8月3日、ドワンゴカップ2006でFマリノスと対戦するセルティックの俊輔が観られるようだ。

寝不足から立ち直ってリスタート!
折角だから、早起きの癖を尊重して、早寝するようにしていこうかなと思っている。
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by windowhead | 2006-07-11 17:21 | 紙のフットボール | Comments(5)

Webサイト「長崎微熱」にコラムを移した…

自分が追っている幕末明治のことがらを掲載していくWebサイトを立ち上げた。

●「長崎微熱」(ながさきびねつ):長崎にうもれた幕末明治のできごとを紡いでいく作業場とでもいうべきところ。まだ、製作途中だけどライフワークの一つになるかも…?。

そこに、このブログで書いて来た歴史関連のコラムも集めることにした。
2004年から「ウエストコースト日日抄」を書いてきが、歴史関連コラム(もちろん、大河新選組!関連のものも入れている。)がすでに70件を越えていることに、我ながらびっくり。
そして、見やすくなったのも事実。
移動には、かなりの時間を要した。なぜなら、ブログのコラムは、下書きをしないで、直接ブログの記入欄に書いているので、自分のパソコンにアーカイブがなかったからだ。ブログから一旦自分のパソコンにアーカイブして、それからまたWebに移していくと言う、なんとも面倒くさい作業を延々つづけて、やっと歴史記事だけ単純に移し終えた。単純に移しただけだから、「白牡丹のつぶやき」さんなど、参考にしたり、関連記事を書かれているブログへのリンクはまだ、繋いでいないまま。メンテナンスもこれからだなあ。

サイトを新たに立ち上げた理由はいくつかある。
ひとつは、レンタルのブログの容量の問題。(まだいっぱいではないが、いずれは容量不足になるはず)
それから、白牡丹さんも問題提起されていたが、製作著作権の問題が今後出てくる可能性があるということ。
それから、ブログだけに書き込んでいて、アーカイブをとっていなかったら、もし、ブログのシステムが何らかの事情でこわれたとき、記事が失われるかもしれないということへの危機管理対応。
今のブログは、書き込みやすいが、書かれた以前の記事を探すのに苦労すぐことが多い。その点は、Webのほうが見つけやすい。
それに、後ろ向きだが、最近商用利用としか思えない無関係なコメントやトラックバック、あきらかなスパムが多くなったことも、大きな理由になっている。

こんなことから、取り掛かったわけだが、作業量が2倍になるというデメリットも大きい。

私にとって、ブログのよさは、フットワークの軽さにあった。
ブログとネットカフェがあれば、いつでもどこでも、さっさと記事をまとめることができるわけで、おのずと記事の書き方もアグレッシブで勢いのあるものになっていく。それは、快感でもある。
コメントやリンクで、同好の人たちとのつながりや情報交換ができているのも、ブログの大切な利点。
これからも、この「ウエストコースト日日抄」を続けていきながら、歴史コラムのアーカイブと調査したものの経過発表を「長崎微熱」で行うという二本立てで進もうと思っている。同時に、古いコラムは徐々に消去していくつもり。

「ウエストコースト日日抄」を訪問してくださるみなさんに、ご報告がてら、これからもよろしくお付き合いくださいとあらためてお願いします。
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by windowhead | 2006-07-07 11:38 | 日日抄 | Comments(1)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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