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やっとできた!西南戦争、台湾出兵戦没者(長崎埋葬)データベース

地元の人々にもあまり知られていないが、長崎にも西南戦争による戦没者の墓地がある。
「佐古招魂社」と呼んでいるが、正式にはどうも「佐古梅ヶ崎招魂社、官修佐古梅ヶ崎墳墓」というようだ。西南戦争や、その2年前の台湾出兵の政府軍戦没者を埋葬し、お祭りしている場所で、私感だが、靖国神社のような性格のものではないかと思っている。
この場所を知ったのは、もう10年以上前だったが、戊辰戦争時、長崎から奥羽地方に討伐に向かった「振遠隊」の供養碑があると聞いて訪れたのが最初だった。ここは一般に開放されていないので、鍵をお借りして中にはいるのだが、草の生い茂った中に、おびただしい数の小さな墓石が並んでいるのに圧倒された。墓石を見ていくと、その出身地は日本各地の及んでいる。すでに100年以上前の墓標のため、こわれたり、表面が剥離した物も多く、とても寂しげに見えて、心を打った。
後日、それらの墓標は、明治7年の「台湾征伐」と明治10年の「西南戦争」に出兵し戦死や病死した日本陸軍、海軍の兵士たちのお墓ということがわかった。

なぜ、そんなお墓が長崎にあるのか、不思議に思ったが、この2つの戦争の重要な軍事拠点が長崎に置かれ、そこから船で戦場に兵士を送り出していたようだ。台湾征伐のときは、大隈重信、谷千城、西郷従道以下、将兵4500人以上が長崎港から出兵していったらしい。
西南戦争時も、長崎は指令本部のようなものがおかれていて、別働第3,4旅団は長崎を拠点に鹿児島や熊本にむかった。警視庁の川路大警視率いる旅団でもあり、会津の山川浩もその旅団にいたのではなかったか。
長崎が拠点に選ばれた大きな理由の1つには、西洋医学校と最先端西洋医学の病院があったということもがあげられる。多くの負傷者を出すことが予測される出兵であるため、近代的な外科手術や手当てができる医者が一番たくさんいて、設備も充実している長崎西洋医学校を軍病院にしたのだ。佐古招魂社はこの長崎西洋医学校のすぐ上の山になる。この西洋医学校こそあの松本良順とオランダ人軍医ポンペの尽力でできた小島養生所を前身にしている施設なのだ。
台湾討伐や西南戦争で負傷したり病気になった人の一部は長崎の病院に収容され手当てを受けた。長崎の病院で傷病死した兵士たちが祭られたのが佐古梅ヶ崎招魂社だ。

ここに葬られている人たちの名簿がないものかと探していたが、今年の春のお彼岸に執り行われた招魂祭の時お会いした長崎郷友会のS氏から「明治百年記念事業 官祭佐古梅ヶ崎招魂社・官修佐古梅ヶ崎墳墓遠隔概要」という資料をいただいた。
この資料の中に、佐古の墓地に眠る人々の名前や出身地が記されていた。
「インターネットを駆使できるのであれば、違った形で佐古招魂社のことを伝えることができると思うので、そのために活用してほしい」との言葉も一緒にいただいたので、責任重大。なんとか、埋葬されている人々と子孫や関係者をつなぐものにできないかと考えたが、まずは、記載されている1100人の人々の一覧をつくり、出身地や名前の一部でも検索できるようにしてみた。
7月には完成の予定だったが、この日までかかってしまった。

データベースは長崎の歴史を紐解くWEBサイト・「長崎微熱」内において、そこに検索用ページをつくってみた。

自分のルーツ探しの人々に、役立つ情報になってくれれば…。と思っている。

佐古招魂魂社被埋葬社データベースhttp://50s.upper.jp/sako.html
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by windowhead | 2006-10-05 02:55 | 長崎と幕末維新 | Comments(0)

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