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アジアカップはイラクへ……感じたことなど

アジアカップは、イラクの優勝で終わった。
4カ国共同開催や、運営上のミスの多さや、日本の決定力不足など、うんざりすることも多かったが、内戦状態のイラクが優勝したことには、ささやかな感動があった。

独裁者のエゴや大国の言いがかりから、10年近く戦乱状態にあるイラクの選手たちのエネルギーは決して刹那的な爆発ではなかった。どんな状態であっても最後まで戦うと言う闘志にあふれていた。
日本が追求するモダンなサッカーなんかじゃない中東オリジナルのようなサッカー同士の激突は激しく魅力的だった。
この闘志を日本に求めるのは不可能だろう。だって、日本は国民みんなが闘志などよりスマートな生き方のほうを選んできたのだから。口論すること議論することさえ大人気ないと捨てて、感情を表に出さないことがスマートなことだとして戦後からの成長期を生きてきたのだから。そんな生き方をした日本人の子供である今の選手たちに、イラクのような闘志を求めるのは、求める側の責任逃れに感じてしまう。
日本には日本の戦い方があり、それを誇れるまでに作り上げていくことしかないのだ。

今回の日本の敗因みたいなものは、いろいろあるのだろうが、素人目に見ると、今作り上げつつある「日本らしいサッカー」が確固たる自信が持てるほどには成っていなかったからだと思う。
自分たちのスタイルはこれなんだという自信を獲得するには、まだまだ経験不足。今回のアジア杯が最初の試運転の場だったのだから、自信がもてないのはあたりまえなのだ。

最後のPK戦で、羽生選手がはずしたのがその象徴のような気がする。

羽生選手以外のPKを蹴った選手たちは皆、大きな舞台での負けを経験している。その恐怖と屈辱から這い上がってきた経験を持つ。
極度に緊張する大舞台でのPKを経験していない羽生選手はボールの設置のときから迷いが見えた。観戦している私たちが、蹴る前から負けてると感じてしまった。サドンデスでのPK戦の最初のキッカーにするには少しかわいそうだった。
それでも、これで羽生選手はさらに強い選手になっていくと思う。Jリーグだけでは経験できない大きなダメージを経験し、打ちひしがれながらも乗り越えてきた川口、中澤、中村俊、高原たちの強さの源を知るきっかけになっただろうし、自分もその中に一歩踏み入れることになった記念すべきPK戦だったと、後で話せるような強い選手になっていってくれるだろう。

オシムジャパンはまだまだ羽生選手の段階だったのだ。


以前読んだ木村元彦著「蹴る群れ」の最初の章が「イラク代表随行記」だった。
当時(2004年~2006年)のイラク代表は、内戦状態の国内で練習ができず、ホームは1000キロ先の隣国カタールのドーハに置かれていた。代表選手たちはバスでイラク国内から隣国のドーハまで移動して練習していたという。朝早くにバスでドーハまで移動し、きっちり2時間の練習をするとすぐにバスに乗って、明るいうちにイラクのそれぞれの自宅に戻る。暗くなると身の危険にさらされるからだ。
このような状態で練習を続けてきた代表なのだ。そしてこのチームには、国内では敵対しているシーア派やスンニ派だけでなくクルド人の選手もいる。
今やサッカーチームの中にしか「イラクのあるべき姿」は存在していないのかもしれない。
「イラクのあるべき姿」は、失点ゼロの負けないチームだった。
決勝ゴールを叩き込んだユーニス・マフムードも1000キロ移動のバスに乗っていた選手だった。


日本対韓国の3位決定戦を見ながら感じたことは、スタッフの闘志の差だ。
退場になった韓国の監督、コーチがなかなかピッチを去らなかった。最後の最後までその判定に抗議していた。
延長戦、PK戦になると、フォンミョンボコーチは、チームのところに戻ってきていた。これはルール違反だ。フォンミョンボコーチは、制裁覚悟で戻ってきたのだろう。決して軽い制裁ではないはずだ。それでも勝ちたい、勝たせたいという強い意志は、選手たちに伝わっただろう。コーチの覚悟は選手たちを奮い立たせたと思う。

片や日本は、PK戦になると、監督がピッチを去る。選手たちは戦場に取り残された孤児のようだ。日本のコーチたちはどのような言葉を選手たちにかけたのだろうか?それよりなにより、反町コーチはすでに前のゲームから日本に帰っていたではないか。確かにU-22があるかもしれない。しかし、決戦の場にいないコーチに何の意味があるのか。
フォンミョンボのように、選手の心をもったコーチが日本にはいないようだ。日本のコーチは指導者の顔しかないのが残念だ。
韓国戦に負けた要因はいろいろあるだろう。反省は選手ばかりでなく、スタッフもする必要がある「我々はどれほど選手をサポートできたか。彼らのモチベーションを下げるような要因を取り除くことができたか、選手を最高の状態で送り出すことができたか」と。そしてチームに大鉈を振るうのであれば、選手ばかりでなくスタッフも含めてやって欲しい。


8月になると欧州各国のリーグが始まる。
中村俊輔のセルティックは、8月5日が開幕戦。対戦相手は、俊輔とは相性のいいキルマーノックだが、セルティックのストラカン監督は俊輔に数日の休暇をくれたようだ。さすがだね、ゴードン。

2011年のアジアカップはカタールで行われるらしい。
暑さやラマダンの関係上1月の開催をカタールは主張しているようだ。日本側は、1月はJリーグのオフの時期になる。大切な選手のオフの時期にゲームをさせるわけにはいかないと言って反対しているようだ。確かに1年間の疲れを取り、心身のメンテナンスを行うオフは、きちんと取らせたいと思う。
しかし、ちょっと今回に目を向けて欲しい。欧州組の中村選手や高原選手はこのオフの期間をすべてアジアカップの日本代表に使ったのだ。彼らは心身のメンテナンスをする暇もなく、異国での長い戦いに挑むことになるのだ。海外組だって人間なんだよ。彼らへの心配りも忘れずにいて欲しい。
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by windowhead | 2007-07-30 18:18 | 紙のフットボール | Comments(0)

アジア杯主催側に抗議しないのかな?川渕さんは

オシム日本にまたトラブル「部屋がない」(日刊スポーツ)

アジアカップと言えば、いつもゲーム以上にその周辺でのトラブルの印象が強い。
レフリーがアンフェアというか極端にどちらかのチームよりというのは、もうアジアカップなら当たり前かもね、とあきらめてしまうくらい日常的だ。前回は、中国人たちの日本への憎悪の深さを見せ付けられて愕然とした大会だった。(私がジーコジャパンの選手たちに敬意を表するのは、彼らでは責任の取りようのない歴史的な憎悪の渦巻く中で、日本人として正々堂々戦って勝ってくれたというところにある。私にとっては、ワールドカップより、あの中国でのアジアカップのほうが日本人としてのアイデンティティと言う点では大きな意味があった。)

アジアはどんどん近代化し、急成長していっている。
ならば、アジアカップの主催やホスト国の大会運営ももっともっと洗練され成長していってもらわなければならない。
陸続きでない4カ国共催というのがまずおかしい。それも交通の便がいいわけでもない国々で。移動のないチームと、毎回移動しなければならないチームのアンバランスがでるような組み合わせも4カ国にまたがったのが原因。移動のための足の確保を確認していない。意味不明なキャンセルをしてる。着いたらホテルがない。……こんなことが、あっていいわけがない。
これは、完全に主催側とホスト国担当の怠慢が起こした事件と思っている。そうでなければ、悪意があってのこととなる。

代表に帯同している広報は「抗議するなどことを荒立てるつもりはない。」と言っているようだが、それは、おかしい。
正式な抗議をするべきだと
もし、アジアだから仕方がないという発想で、抗議しないのであれば、それは、アジアのその国々をばかにしていることになりはしないか。
その国々が、近代的な国であろうとしているのであれば、国際的なイベントを運営する上で最善の努力をつくすべきなのだ。落ち度があっては国際問題に発展するというくらいの気構えで運営にあたるべきなのだ。日本も戦後の発展途上のとき、そういう気構えで五輪や万博などに取り組んできたのだ。

今回のアジアカップが開催された場所はどこも湿度が高く気温も高い熱帯雨林にちかいような場所ばかり。それも夏の最中tと言う殺人的な環境での開催だ。
これまで、日本代表に病人や大きなけが人が出なかったのは幸運と考えたほうがいい。
昨年の遠藤選手のようなことにならなければよいがと、心配になる。
一番気になるのは、高齢のオシム監督の健康状態だ。さまざまなストレスを抱えていながら、今は試合の緊張感で踏ん張れているのだと思う。アジアカップが終了したあと、オシム監督の気力や体力が持ちこたえられるか。選手やスタッフは、日本に帰ればそこには安心できる日常があるが、オシム監督にとっては、日本もまだ旅の空だ。同じように、海外組の高原選手や中村俊輔選手もその足でまた緊張のつづく海外のチームに帰っていかなければならない。
ゲーム以外のことで、ストレスが溜まり、リフレッシュできない状況におかれている監督や選手たちが本当に気の毒。


FIFAは選手たちの健康状態を考え、3000メートル以上の高地での国際試合を禁じた。
サッカーをやるのは、協会のお偉いさんでもスタッフでもない。選手たちだ。過酷な環境でプレーさせることを禁じるFIFAの人権意識こそが、サッカーを守る最高機関のプライドなのだと思う。

日本の協会も帯同のスタッフも、もう少し選手たちのメンタリティーに配慮があってもいいのではないか。
足の確保も部屋の確保もされていない状態におかれた選手たちを前に、協会関係者はもっとしっかりと怒って抗議しなければいけない。彼らの本気が、選手たちの「自分たちを守ってくれている」という信頼感につながると思う。
不当な扱いに抗議するのは正当な権利であり、言いにくいこともきちんと相手に伝えることが成熟した大人の渉外の仕方だ。抗議すべき場で、文句を言うのは大人げないと言う人がいるがそれは、その状況からの逃げになると思う。日本のサッカー協会も、変に物分りのいい振りをせず、本当の大人の対応をして見せて欲しい。


暑さがナンだ、日の丸背負っているんだから甘えるな、韓国との因縁の対決に負ければ監督の去就問題だ、などと国内でもうるさい。
冷房の効いた快適な環境で観戦できる私たちは、もうすこし戦う彼らの状況に思いを巡らせてもいいのではないか。負けていいと言っているのではない。おそらく選手たちは出せるだけの力を出して最後の試合を戦い抜いてくれるはずだ。その意志を信じて応援し、帰国時もきちんとむかえたいと思うのだ。
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by windowhead | 2007-07-28 15:26 | 紙のフットボール | Comments(2)

日本人はなぜシュートを打たないのか?

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「日本人はなぜシュートを打たないのか?」
  湯浅健二 著  
  アスキー新書

サウジ戦の負けで、中村俊輔や中澤ユージ、川口ヨシカツにとっては人生最後になるだろうアジア杯(次は2011年だから、俊ちゃん33歳)が終わった。韓国との3位決定戦はあるけど、実質終わったと言ってもいいだろう。

ゲームとしては、とてもおもしろかった。
ゲームを支配していたのは日本だったのに、個人の強さの差で負けたような試合。
一昔前のプレミアみたいなオーストラリア戦は、タフなゲームだったけど、理解できるフィジカルだったり、技術だった。サウジアラビアは、それがもう少し強いというか野性的な強さやあざとさのあるチームだった。そうだよ、昔からアラブは一癖あったよなあ。それに立ち向かう日本は、少年のように律儀でまじめで必死。
それが日本のよさなんだろうけど、一人ぐらいは、抜け駆けするような愛嬌のあるふとどき者がいてもよかったんじゃないかなあと。

TVでは、セル爺や松木がシュートで終われ、シュートで終われ!と耳にたこができるほど言っている。
いつもは、癇に障るセル爺の言葉も昨日は、そうだ、そうだと共感しながら聞いた。
「中村俊は日本でも最高のキッカーなのだから、もっとシュートを打つべきなんだ。いいキッカーが打てば入る可能性は高いんだから」 そうだよ、俊ちゃん、なんで君が「ふとどき者」にならない!君がなれば皆の「つながねばならない」という呪縛の箍が外れただろうに。


ジェフ千葉の躍進時をよく知らない私には、アジアカップはオシム監督のやりたいサッカーの形を知るいい機会だった。
ああ、「トータルフットボール」がやりたいんだなあと、漠然とわかった。そして、オシムさんがやりたいものの完成形は見られなかったが、随所随所でその断片を見せてもらったと思う。さらにアジアカップのたった数試合でも、どんどんその断片が成長していったのも見ることができた。


じつは、オシム監督のサッカーを形として理解できてきた参考書がある。
それが、湯浅健二氏著の「日本人はなぜシュートを打たないのか?」という新書だ。
残念ながら、この本はオシム本ではない。
それでもオシムのサッカーが手に取るようにわかるようになるのは、オシムのサッカーは、オシム独自の特別な戦術ではなく、ヨーロッパで一般的なモダンサッカーの基本のようなものだからなのだ。
今50歳代の湯浅氏が、サッカー留学していたころのエピソードを元に書かれているのだが、ドイツではこのころから、スペースをつくるためのクリエイティブな無駄走りや攻撃の起点を消すディフェンス、全員攻撃全員守備などが行われていたわけだ。
日本でも、ラモスや与那城ジョージたちがいた読売クラブで取り組んでいたようだ。ラモスたちが超人的に見えたのは組織としてのサッカーに卓越した個人技がうまくシンクロしていたからなのだ。

「イメージの共有」とか、「考えながら走るサッカー」「スペースをつくる無駄走り」とか、「守備は攻撃の起点」とか、よく言われる、よく書かれているが漠然としているフレーズが、とても具体的にイメージでき、理解できるようなエピソードが盛りだくさんに書かれている。
全員が走ることで、スペースができ、そこに誰かが走りこむ。走りこんだ誰かのところにはまたスペースができる。スペースはできては消え、また別のところにできる。そこにボールや人が動いて連動ができるということを具体的にイメージできるようになっただけで、TVで見る斜め上からのアングルがさらに楽しめるようになったし、TVに映らないサイドでの選手の動きまで想像できるようになって、さらにサッカーが面白くなった。

日本人はなぜシュートを打たないのか?という命題にも触れてあるが、ここで言われる日本人特有の気質については、今のプロの選手たちはすでにクリアしている部分だと思う。この本を読んだ人が、浅く捉えて単なる責任回避の志向が強いからシュートに至らないと批判するとしたらそれは短絡的。その上で、さらに状況的なファクターやメンタル的なものがあってシュートを躊躇することがあるのだと理解したい。サッカーは見ている者が見える状況の何十倍もの不確定な要素をはらんでるスポーツなのだから。

「サッカーには、クリエーティブな無駄走りの義務をこなした報酬として自由がもたらされる。その自由は、シュートを打つというリスクを侵す自由だ」という。シュートが打てるチャンスにめぐり合えるのは貢献した報酬なのだ。リスクを侵しても責められないのだから、シュートを打とう!
ああ、なんて魅惑的な考え方か。


このようにヨーロッパでは当たり前のサッカースタイルが、なぜ日本にはいままで浸透できなかったのだろうか?
湯浅氏がコーチを勤めていた読売クラブ時代に、そのチームでは取り組んでいたスタイルが、なぜ日本に広がらなかったのか、そのころどんなスタイルのサッカーが日本人を魅了していたのか、それが知りたくなった。

改めて「日本人はなぜシュートを打たないのか?」を上稿してくれた湯浅健二さんに、お礼を言いたい。

サッカーファンの人、サッカーを知りたい人、オシムジャパンを知りたい人、この本は「花まるお勧め」。
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by windowhead | 2007-07-26 15:49 | 紙のフットボール | Comments(2)

俊輔は鉄人ではない!…心配つのるばかり。

俊輔鉄人、アジア杯から無休でセルティック合流

アジア杯3連覇に粉骨砕身のファンタジスタが、異例の過酷日程に直面した。
 29日の決勝(ジャカルタ)で閉幕となる今大会。俊輔はチームとともにいったん帰国予定だが、セルティック関係者によると、早ければ8月2日の練習に今季初合流を求められており、国内無休状態のまま、スコットランドに出発。5日の開幕戦キルマーノック戦に強行出場する予定だ。(スポーツ報知)
と言う記事があった。


たしか、8月5日開幕のスコットランドプレミアリーグ開幕戦には出なくてよさそうという情報がながれていなかったけ?
ストラカン監督がアジア杯で疲れて帰ってくるナカムラには休暇が必要といっているとの情報だったはずだぞ~。

それが一転して、5日の開幕戦に出したいだって~~~。

む~~ん、俊輔がアジア杯戦っている間にアメリカでMLSオールスターズと対戦して完封負けしちゃったセルティック。その後、カナダには勝ったようだけど、新シーズンの立ち上がりは不安がいっぱいなんだろう。ストラカン監督、ついに、秘蔵っ子・俊輔にお助けサインをだしてきたようだ。

ニュース記事によれば、29日のアジア杯の優勝戦まで戦ったとして、とんぼ返りで日本に帰って、すぐにスコットランドに向けて旅立たないと、セルティックが予定している8月2日の練習合流には間に合わないらしい。
よくよくカレンダーを見ても、試合終了日から中3日でヨーロッパに帰ることになる。最悪、30日にアジア杯決勝地を飛び立って、成田に着いたら、空港をでることなく、そのままロンドン行きに乗って、乗り換えいれて17時間くらいかけてグラスゴーに帰るという強行日程になるのかもしれないね。

大丈夫なのか?俊輔。
いまでさえ、日本の選手たちに比べればはるかにオーバーワークをこなしているのに、心身のメンテナンスをする暇もない。
俊輔個人としても、今はアジア杯の優勝しか頭にないだろう。
これをクリアすると、すぐに彼の頭は、チャンピオンズリーグの予選に切り替わるんだろう。

どこかで、燃え尽きてしまわないだろうか。
怪我や大きな故障が出てこないだろうか。

アジア杯も大事だし、本来の戦いの場であるスコットランドプレミアリーグはさらに大事だが、なによりも、中村俊輔個人が取替えのきかない一番大切なものなのだ。

オシム監督は、決勝まで俊輔スタメンは変えないだろうから、早い時間に大量得点して、水野君あたりに変わってもらうしかない。
あとは、ストラカン監督に、適当に休ませてあげてと期待するしかない。


新シーズンのセルティックのメンバーもほぼ決まったのだろうか。
日本語サイトは更新してないので、メインサイトで見ると、うれしいことに、ヤロシク、ネイラー、ボルツ、スノが在籍していた。ヤロシクはトットナムだったかとの話が出ていたが、移籍にはいたらなかったか。
そういえば、セルティックにもオージーが一人加入した。スコット・マクドナルド、前代表FWだったそうだが、覚えていない。


アジア杯の終了を待って、すぐに欧州の新シーズンが始まる。
アジアの多くの国も欧州リーグと同じシーズンになっているのに、なぜ日本だけ特殊なシーズンなのだろう?Jリーグもシーズンを世界標準に合わせて欲しいなあ。
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by windowhead | 2007-07-23 13:39 | 紙のフットボール | Comments(3)

中澤祐二に感激!のオーストラリア戦

PK戦までいくかもね…という嫌な予想が当ってしまったオーストラリア戦。
でもPK戦を制して勝った。
勝ったとたん、ずーっと風邪気味でもやもやとした体調までふっとんで、ぐっすりと眠れました。

いいチームになったなあ。
ベテランたちとフレッシュたちがバランスよく機能している。

監督、よくぞ中盤選手の交代をがまんしてくれました。
イエローがでた阿部をそのまま使ってくれました。
PK戦の予感があったので、いつものように終盤でヤットと俊輔を代えると致命傷になるぞと思っていましたが、やはりオシム監督もPK戦の予感があったのでしょう。
献身的な阿部くんは、イエローの後、ずっといいプレーが続いていた。阿部君のメンタルの特徴。

俊輔、高原がどんどんディフェンスにもどっていく。
特に俊輔は頼もしいほどディフェンスしていたし、昔の俊ならまさか~の空中戦までやっていた。俊輔、走らない!なんて、もう誰もいえないでしょう。今回もかなりの運動量だったし、なにより、あれだけ走って疲れていても、パスや判断の精度が落ちない技術と精神力はとても頼もしいし、これが進化した俊輔なんだと思った。
まあ、ファンとしてはもっと、昔のような一番目立った俊輔を出して欲しいと思うのだけど、今回もがちがちのマークが付いていたので、動きが制限されてしまっていた。そんなときは、自分のアピールより、危険箇所を早くに察知して消して回るプレーに徹していた。欧州で大人なプレーヤーになってきたんだなあと実感。
今後も、日本代表では、俊輔にマンマークが付くのは当たり前になるだろうから、それをチャンスとしてケンゴ君やヤットがどんどん活躍しなければ!おいしいところを持っていけるようになって欲しい。ケンゴ君、どんどん縦に仕掛けていっていた。後は体力ね。


川口、さすが。
川口が活躍する試合は見たくないというのが正直なところ。もう心臓に悪い。
しかし、こんな土壇場になったら川口だよなあ。
実は、実は、オージー戦は、体が大きくて、パワープレーに優れた楢崎のほうがいいんじゃないかと思っていたけど…PK戦だと、川口には神が下りてくるからねえ。8月15日・終戦記念日生まれは、やはりなにかがあるのかしらん。


しかし、もう何より、何より、最高だったのは中澤!!!!!!
頼もしい男だ。
このオーストラリア戦は中澤のための試合だったと言っても過言ではないと思った。
なんだか、すごーく吹っ切れてさらにパワーアップしたような中澤がいた。
中澤がいるから、ディフェンスは安心という気にさせるほどすばらしかった。
中澤の気力と迫力、プラスのオーラがみんなに伝わっていたのだと思う。
中澤のプラスのオーラは、私にも伝わっていた。
PK戦だけど、負ける気がしなかった。
サドンデスになる前に決まるような気がしていた。

それにしても、オシム監督は粋なはからい。
PK戦は運が左右するという持論の監督が選んだ6人は、W杯戦士たちばかり。
勝つも負けるも引きずってきたものへの決着の場を最後にくれたのだと思う。
それに応えた彼らにも賛辞を贈ろう。

もう、これでW杯のことをどうこう言う輩はいなくなるだろう。
自分が戦いもせずに、選手たちを不甲斐ないだの、俺たちの夢を壊しただの、なじり続けた人たちも、このPK戦で、その鬱憤ははれたはず。これからは、彼らをもっと応援してあげて欲しい。


PK戦前、選手スタッフ総勢で組んだスクラムの感動的なシーンはこのアジアカップの最も印象的なシーンになっていきそうだ。
ときおり届いてきた「コマノー!」とという、こどもの声。この子は、試合の間中、ずーと声援をおくってくれていた。心強い声援だった。


本当にすばらしいゲームだった。
もう1回言おう、みんなありがとう。

ボンバー、ありがとう。


Excite エキサイト : スポーツニュース
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by windowhead | 2007-07-22 08:48 | 紙のフットボール | Comments(6)

女医さん、スリランカに飛ぶ

ウエストコーストで頑張っている女医さんが、今日スリランカに向けて飛び立った。
女医Kさんは知人の一人なのだが、米国のイラク攻撃時に「国境なき医師団」の一人としてアンマンからイラク国内に向けての支援グループで最初の活動をした人だ。
このとき、医療などができない私たちは、あなたをどのようにして支援すればいい?と聞いたら、直接支援は難しいと思うから、日本の国境なき医師団を支援して欲しいといわれ、そうしたときからの知人で、ときどき、メールなど頂く。

1週間ほど前、ほかの用事で彼女から連絡があり久しぶりに会ったら、今月スリランカに行くのだという。
「スリランカって、今危険なの?」
恥ずかしながら、私はそんな質問をしてしまった。
日本のニュースではほとんど流れないが、スリランカは、ずっと民族紛争を続いているらしい。

スリランカとは、昔はセイロンと呼ばれていたインドの南東にあるキウイみたいな形の島国。
1972年に共和制になってスリランカと改称した。
1980年代末から反政府グループによる独立運動などがおこり、局地的な内戦状態にあったが、2002年に一応内戦は終結したと聞いていた。

彼女の話によると、昨年あたりから、また紛争が再発して、今は内戦状態らしい。
昨年は、テロが現地で働くNGOにも向けられて、NGOっスタッフが15人くらい殺害されたらしい。
内戦の犠牲者の数も、2002年の停戦前より、多くなっているらしい。
現地の医者たち上流階級は、安全なところに避難するので、紛争が起こっているところでは医療が不足しているそうだ。
彼女の出発は、もっと早い予定だったらしいが、ビザの発行とかが手間取っていたらしい。

「おかげで、不在者投票はできたけどね!」という言葉を残して旅立った。


長崎大学医学部の熱帯医療研究所には、国際医療支援の医師になると最初から決め手学んでいる学生さんが数人いるらしい。
彼らも「国境なき医師団」に登録しているそうだ。
なかには男性の看護士もいるらしい。
女医Kさんの話では、現地での医療活動は力仕事の部分もあるので、屈強の男性看護士というのは強い味方になりそうだとのこと。


災害や紛争の現場を映像などで見るにつけ、自分の力のなさや行動力のなさに、なさけなくなるが、出来ることからやるしかない。

せめて、みなさんに、彼女のこと、国境なき医師団のこと、スリランカの現状などを紹介して、知ってもらうことにした。

国境なき医師団への支援の方法はさまざまあるようだ。
興味のある方は、ホームページをのぞいてください。
「国境なき医師団日本ホームページ」

K女医さんのことは、情報がはいったら、このブログで紹介していきたい。

彼女が元気に任務を遂行して戻ってくることを祈っている。
託されたことは、しっかりと構築しておくから安心して頑張ってね。
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by windowhead | 2007-07-19 13:13 | 日日抄 | Comments(0)

修羅場をくぐった3人の幕臣たちの復活の場・長崎

W杯、アジアカップ、海外リーグなど修羅場をくぐってきた選手たちはやはり頼もしいなあとアジアカップUAE戦を見て、つくづく思った。

幕末、戊辰戦争の修羅場をくぐってきた3人の男たちが明治の長崎の歴史の中に名を残している。
今月下旬、ある街の歴史研究愛好会の勉強会でお話しをする機会を頂いた。
テーマは、長崎に関連し、歴史的な切り口のあるものならお任せということだったので、この3人の男たちについて紹介させてもらうことにした。

この3人の男たちへの興味は、以前にもこのブログに書いたが、今回の原稿作りの中で改めて彼らの経歴を眺めると3人が同じ時期に長崎にいたことがわかる。そして、彼らの長崎でのキャリアから考えて、絶対に数回は3人同席の機会があったと推測できる。

この3人とは

●8代目長崎県令(県知事) 日下義雄
●初代長崎市長 北原雅長
●三菱経営になってから初代長崎造船所長 山脇正勝

日下と北原は、会津藩士、山脇は桑名藩士。
会津と桑名の藩主は実の兄弟で、どちらも幕府に忠義を立て、幕府軍として戊辰戦争を戦っている。会津は落城まで徹底抗戦し、桑名藩主は、国元が恭順したので藩主とその側近は会津、仙台、箱館と転戦していく。

日下義雄は、飯盛山で自刃した白虎隊隊士石田和助の実兄。当時は石田伍助という名で、白虎隊に属していたが、別の分隊だった。
会津降伏後、箱館まで転戦し、箱館戦争終結時捕虜となって東京に送られる。1年後赦免され、井上馨の助力もあって、岩倉使節団の一員として2年間欧州・アメリカを回って学問を積んでくる。帰国後、当時の大蔵省に入省した。、
明治19年、第8代長崎県令として長崎に。
海外先進国を見てきた日下は、日本の衛生面の遅れを問題視して、長崎でも、画期的な施策を実行している。土葬を禁止し、検疫所や伝染病病院の前身になる施設を作り、チェコの保養地にならった行楽地を作り、製氷会社を起こし、日本で3番目の水道工事まで着工させる。この水道は、日本で最初のダム式貯水池を持った近代水道で、このとき建設された本河内高部水源地のダムはつい最近まで昔のまま活用されていた。ただ、この水道工事には膨大な費用が掛かるため、市民の猛烈な反対にあい、それでも押し通したため明治22年、知事罷免になってしまう。
長崎を離れた日下は、その後、福島県知事として会津に帰り、鉄道会社を興したり、国会議員を務めたりしている。


北原雅長は、会津藩家老神保内蔵助の次男で母方の北原の姓を継いだ。兄は、戊辰戦争勃発の責任をとって切腹した家老神保修理。
会津戦争中は、大鳥圭介たちと母なり峠で戦い、篭城。この戦さで、父神保内蔵助が自刃、兄嫁神保雪自刃。落城後、家老萱野権兵衛の自刃に立ちあった。その後工部省に入る。このとき、工部省には大鳥圭介がいた。のち、官吏として長崎で働いていたが、明治22年の市町村制施行に当って、県知事日下義雄によって、初代長崎市長に任命される。
日下の水道工事を引き継ぐ形となり、明治24年水道工事を完成させ、明治28年、長崎を離れる。
その後、東京下谷区長などを務める。その傍ら、京都守護職時代の会津藩の動向や、孝明天皇から拝領した御宸翰(ごしんかん=天皇直筆の文書)と御製の存在を明かした「七年史」を書き、会津藩の復権に尽くした。


山脇正勝は、山脇隼太郎といい、桑名藩家老の子息で、藩主松平定敬の小姓の一人。
戊辰戦争で藩が恭順に傾くと、家老の父親の命令で、恭順派の家老を暗殺する。藩主を追って会津などを転戦し、箱館戦争直前に箱館に渡るが、藩主定敬はすでに箱館を離れていたので、土方歳三率いる箱館新選組に入って、弁天台場を戦場に戦い、降伏。新選組隊士名簿にある「大河内太郎」は、山脇正勝のことだ。赦免後は、多芸谷太郎太と名乗って、岩倉使節団とともにアメリカに渡っている。名前を変えたのもアメリカ行きも、暗殺者として国元に帰れない事情があったのかもしれない。アメリカ出発前の山脇の写真があるが、左手小指が欠けている。会津に向かって転戦中、大面村の戦いで小指を欠いたという。激戦に明け暮れた経歴を物語るにあまりある。
アメリカで岩崎弥之助と知り合い、帰国後の明治8年郵便汽船三菱会社に入社して翻訳などを担当、明治10年には上海支社長、明治14年、三菱が買い取った高島炭鉱の所長になる。
当時の炭鉱は囚人たちを工夫として働かせるなど、殺伐とした世界だったが、山脇の豪快な正確は工夫たちからも慕われていたようだ。山脇が所長の時代、画期的な出炭量を上げている。
明治17年官営だった長崎造船所を三菱が貸与されたのを機に、山脇は初代長崎造船所所長になる。その後明治30年まで、山脇は長崎造船所長を務めて、重役となって本社に戻っている。本社に戻って程なくして40歳半ばで山脇は三菱を退職し、第一線から退く。
山脇の口癖は「商売は相手と利益山分け」で、一人勝ちを嫌い、長崎造船所では私利私欲のない古武士のような風格の所長として人望を集めていたという。

この山脇は、造船所の工員たちに向かって「酒は大いに飲んでも良いぞ、しかし、仕事は手を抜くな頑張れよ」と言っていたそうだ。
工員たちに囲まれながらこの言葉を言う山脇の姿は、まるで二股口の塹壕で酒を配りながら兵士をねぎらう土方歳三と重なってみえる。
山脇が箱館新選組に入隊した日にちは、土方が二股口から撤退してきたころになる。山脇は二股口には参戦していないが、参戦した兵士たちから、そのときの様子を聞いていたはずだ。
修羅場をくぐってきた土方は兵士の心を掴み、士気を高めさせるつぼを心得ていたし、自分が率先して、戦の先頭に立つ勇気を持っていたので、兵士たちから慕われていた。
同じように人生の修羅場を経験した山脇もいつのまにか土方のようなリーダーになっていたのだろう。

戊辰戦争の渦中で、まさに修羅場を経験した3人の戦士たちが、同時に長崎にいたのは、日下が長崎を離れる明治22年年末までの4、5年くらいと思われる。
この間に、三菱長崎造船所では、この造船所では最初の鉄製船である貨客船「夕顔丸」が竣工している。
竣工時には、長崎の知名士たちを招いての祝賀会もあったことだろう。
知事である日下義雄、市長の北原雅長も招待されたはずだ。
日下も箱館戦争を戦っているので、山脇とは接点がないわけではない。
この3人が一同に介したとき、どのような話をしたのだろうか。


日下、山脇の当時の写真は見ることができた。
いま、北原雅長の写真を探している。
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by windowhead | 2007-07-15 04:45 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

著書でも見えないオシムが出現したカタール戦

アジアカップカタール戦は、残念なゲームだった。

でも、修正点ははっきりしているし、あと2試合までに練習を積んで連携を深め、モチベーションを上げていけば、可能性は残っている。


今回、もっとも致命的だったのは、ゲーム後のオシム監督の行動だったのではないだろうか。

ゲーム直後のインタビュアーへの八つ当たりはいただけない。
よくオシム監督は、マスコミのインタビュー内容を批判するが、今回のインタビューは、しごくまっとうな内容だった。サッカーだけでなく、野球でもバスケットでもラグビーでも、試合直後のインタビューはこのような内容になるだろう。
「勝ち点3がとれそうで、落としたゲームだったと思いますが、どうでしょう?」というようなインタビューだった。
これに対して、急に激しくまくし立てるオシム監督のエキセントリックな姿が、TVを通して全国に流れた。
見ていた多くの人は、なんでインタビュアーに向かって怒るのだろう?と不思議だったはずだ。
サッカーにあまり興味のない私の友人は、このシーンを見ていて、ドン引きしたそうだ。
「なんなのあれ?驚いたなあ。あなたはオシムの本を論理的とほめてたけど、あれじゃ、こらえ性のないただの年寄りの八つ当たりじゃない。インタビュアーや通訳がお気の毒ね」との電話。一般の人の見方は、ほぼ彼女のようなものだったのではないだろうか。
今回のオシム監督の行為は、とても後味の悪いものだった。
代表戦なのに視聴率は12%だったらしい。オシム監督の行為は、その貴重な12%をサッカーから遠ざけたかもしれない。

オシム監督は、選手の不甲斐なさに怒り心頭に達したのかもしれないが、その怒りは人前では収めて、ロッカールームで選手に向けるべきだったろうに、返す返すも残念な行為だ。


さらに気になることがもう1つ。
選手への説教のとき、通訳の人が泣いて通訳ができなかったなどという記事があった。

なぜ、泣いたのだろう、なぜ通訳できなかったのだろう?
通訳の人は、四六時中オシム監督についている人だから、彼が発する言葉がわからないはずはない。それなのに、なぜ、通訳ができなかったのか?

あくまでも憶測だが、こんなこともありえるのでは…。
興奮してまくし立てるオシム監督の言葉に、普通なら口に出すのも憚られる侮蔑的な言葉や、人種差別的な言葉が含まれていたのではないかということだ。
通訳の人は、インタビュアーに対しては、とっさの判断でその言葉は訳さなかったと思う。
実際に訳された言葉には、そんな内容はなかった。それでもしどろもどろの感はあった。言葉がわからないのではなく、伝えて良いのか悪いのか、TVの前で伝えたときの視聴者の反応を考え、試行錯誤されたのではないだろうか。
さらに選手の前でもそのような言葉が出たのであれば、やはり訳するのに躊躇しただろう。
通訳の人がオシム監督を大切に思えば思うほど、その言葉を、選手には投げられなかったのではないだろうか。オシム監督への信頼が崩れることを危惧した彼は、そこで押し黙るしかなかったのではないだろうか。
あのオシム監督のエキセントリックな姿を思い出すにつけ、憶測は憶測におわらないような気がしてしまう。


夜のニュースで、代表の練習風景が流れた。
練習前に、異例のミーティングがあり、オシム監督が15分ほど話をしたそうだ。
練習の風景は、いたって普通に見えた。
きっと、選手たちはすでに気持ちの切り替えをしたんだろう。

あと2試合、勝ち点3づつで、予選突破だ。
アベちゃん、立ち直ったかな?
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by windowhead | 2007-07-11 01:58 | 紙のフットボール | Comments(7)

オシムの考えはこの本でしかわからない。

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「日本人よ!」 
 イビチャ・オシム著 長束恭行訳

 新潮社

ドイツW杯後の1年、マスコミが押し上げたスーパースターは誰か?
それは間違いなくイビチャ・オシム日本代表監督だろう。
今や日本中の誰もが知っているこのオシムという監督を、W杯前、どれだけの日本人が知っていただろうか?
Jリーグファンと、千葉の人しか知らなかったと思う。
その老監督が、たった1年、いや半年もたたずに、日本サッカーの救世主のような存在と日本中から認識されるようになったのは、良くも悪くもメディア、マスコミのおかげだ。そのような意味では、オシム監督は、いやがおうにもマスコミが作ったスーパースターなのだ。

私は、イビチャ・オシムという人にずっと懐疑的だった。
ジェフを立て直した名監督、育成上手、旧ユーゴの監督、ピクシーも尊敬している人…ほどの情報はあったが、年齢的なものや、クラブは仕切っていても代表監督としてのキャリアはすでに15年近く前のこと、長い間欧州を離れているので本場のサッカーを肌で感じられていない、なにより、選手に対する言葉や態度に選手への信頼や尊敬が感じられないという不安要素を感じていた。
それよりも、ジーコで落胆したとはいえ、またしても、身近なJリーグから監督を引き抜くお手軽さや、ジーコの失敗を消し去るためのようにオシムを手放しで信奉するような雲行きに不安があった。
「日本サッカーの日本化」というスローガンは魅力的だったが、日本サッカーの日本化の最終目標は、日本人監督によるナショナルチームと考えると、オシム監督は、その歴史のどの部分を担おうとするのかも気になっていた。

なにしろ、オシム監督の日本代表監督としての考え方を知りたくても、スポーツ新聞とサッカー雑誌しかなかったわけだ。

いや、「オシムの言葉」やその他、オシム監督の本はたくさん出ていると言う方がいるかもしれない。
しかし、それは違う。「オシムの言葉」や「オシムが語る」や「イビチャオシムのサッカー世界を読み解く」や「オシムがまだ語っていないこと」などのオシム本は、オシムが書いたものではない。オシムを研究したり、その周辺を取材した人たちが見たオシムとオシムのサッカー観なのだ。
「ライオンに追われたウサギが肉離れするか」というような教訓めいた言葉が、名言好きな日本のオヤジたちにうけて、ビジネスマンたちの必読書みたいになった「オシムの言葉」が、これまでのオシムを語る本の中では一番優れていると思うが、これも、イビチャ・オシムという名監督のプロフィールと彼の劇的な半生とそれによってはぐくまれた人間性を紹介してくれるが、彼の今を知るには乏しい情報だった。

「日本人よ!」は、イビチャ・オシム本人による著作ということに、大きな意味がある。

この本で、はじめて、日本代表監督であるイビチャ・オシムのサッカーと代表監督としての考え方、チーム作りの方向性や、その複雑な立場を知ることができる。
オシム監督は、とても論理的な思考の人であり、あらゆる事態を想定し、事態に応じた柔軟性を大切にする人ということがわかった。また、思考の論理性や、柔軟性を選手にも求めている。

「考えて走るサッカー」や「水を運ぶ」という断片的に切り出された言葉の意味するところの広さ、深さや本当の意味を知ることができるのはありがたい。

マスコミやメディアの煽りが日本サッカーの今後にどう影響をあたえるかについても、具体的に納得できる現象を上げて警鐘をならしている。
代表監督と言う立場、Jリーグと日本代表の関係性や所属する選手の立場、海外リーグの選手の立場など、ともすれば誤認されがちなことはわかりやすく整理して伝え、、スピードアップしていくプレーに追いつかない審判陣へは痛烈な批判を投げかけるなど、これから日本のサッカー界が取り組まなければいけない問題点にも示唆に富んだ発言をしている。

「日本人よ!」というタイトルを見て、オシムの人生訓と思ってこの本を購入すると、あてがはずれるかもしれない。オシムは、あくまでもサッカー人としてこの本を書いている。広い意味では、比較文化論であったり、人生訓であったりする本だが、あくまでもサッカーを取り巻く人たちに向けて書かれている。それは、マスコミやジャーナリスト、サポーター、ファンも含めてサッカーを愛し、サッカーにかかわりたい人たちに向けてだ。
政治的なことや経済システムには、断固利用されたくないオシムの生き方が、あえてサッカーという世界だけに執着して書くことを選ばせたと思っている。
「私は人生訓をたれるほど年寄りではありませんよ。まだ、現役監督ですよ」と言っているのかもしれない。

この本で、イビチャ・オシムという監督の考え方をよく理解できた。ある種の誤解も解けた。
マスコミを介した彼の発言で、どうしても受け入れ難い言葉の後ろにある監督として、人生の先輩としてのアドバイスと包容力もわかった。
個人的には、なにより日本代表をイビチャ・オシムに託すことに違和感がなくなったことが大きい。

明日はいよいよ、アジアカップの初戦。
選手も監督も、強豪カタールに対しては、本当の意味のリスペクトをもってぶつかっていくだろう。
今の選手と監督を気持ちよく応援していけるようになれたのがうれしい。


日本人よ! | Excite エキサイト ブックス > 書籍情報
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by windowhead | 2007-07-08 18:06 | 紙のフットボール | Comments(2)

会話がつくるオヤツの風景…「4時のオヤツ」

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「4時のオヤツ」 
杉浦日向子 著
  
新潮社

どうしても好きになれない言葉に「スゥィーツ」というのがある。
ケーキだったり、デザート類をそう呼ぶらしいが、この言葉って、きっと日本で勝手に考えた「なんちゃって英語」なのだろう。
女性雑誌はもとより、最近では料理本まで、この言葉を使っているので、言葉から訴求されるイメージはしっかりとしていて、豪華なケーキやパフェやプリンなどが出てくるが、同時に、見栄っ張りな会話やファッションまで、引きずってくる。
「スゥィーツ」というのが似合う時間は、午前10時30分から11時30分と、午後2時前後かなあ。3時のオヤツに「スゥィーツ」は似合わない。

3時のオヤツは子供のためのもの。大人のお茶の時間。
4時のオヤツは、ちょっと中途半端なおなかと気持ちを収めるもの?

ほぼ会話だけでつづられる短い文章。
そこにはかならずちょっと懐かしいお菓子が登場する。
駄菓子をつまむように、ありきたりの風景の中からつまんだ普通の人たちの味のある会話。
下町の会話はケーキの生クリームのようなべたべたした甘さがない。
それでも、お菓子がとりもつ会話にはなんとなくアンニュイな特別な時間が流れている。
お菓子に切羽詰った話しは似合わないのだろう。
言い換えれば、切羽詰った状態の人の心をお菓子がなだめることは可能と言うこと?

「シベリア」とか「サバランケーキ」とか、母の話に出てくるような懐かしい名前がたくさんならぶ。
知っているものは、味が思い出される。食べたときのいきさつも。

この本の文章は、平成3年から平成6年に渡って雑誌に掲載されたものらしい。
登場するお菓子とそれを作って売っているお店はいまも健在なのだろうか?
巻末に、登場するお菓子とお店の一覧があるが、本になる時点で、何店舗かは「残念ながら閉店」と書かれている。
町のお菓子屋さんとともに消えていくお菓子やちいさな思い出。
ちょっと切ない。

登場したお菓子を下に書いてみる。
もし、そのお店とお菓子があなたの近くで健在なら、教えてください。あなたのエピソードも一緒に。

☆柳屋のたい焼き(日本橋人形町)
☆梅むらの豆かん(浅草)
☆新宿中村屋のクリームパン
☆日東屋のアイス最中(閉店)
☆井の頭の糸切りだんご(三鷹市井の頭)
☆浪花屋総本店のかき氷(麻布十番)
☆地蔵通り興伸の大学芋(巣鴨)
☆米久の稲荷寿司(市谷台町)
☆うさぎやのどら焼き(日本橋)
☆チョウシ屋のコロッケ(銀座)
☆福助の茹で小豆(上野)
☆清正の酒饅頭(西荻窪)
☆栄喜堂のシベリア(閉店)
☆味好堂のせんべい(上高田)
☆長命寺の桜もち(向島)
☆三越のソフトクリーム(閉店)
☆フレッシュマンベーカリーのカレーパン(閉店)
☆船橋屋本店のくず餅(亀戸)
☆やおきんのふ菓子(墨田区横川)
☆とらや かねこの焼き団子(閉店)
☆赤坂砂場の卵焼き(赤坂)
☆山田屋まんじゅう(西麻布)
☆ゴンドラのサバラン(九段)
☆志”萬ん草餅(墨田区堤通)
☆デメルのザッハトルテ(渋谷区神宮前)
☆川端道喜のちまき(京都市左京区)
☆エス・ワイルのモカロール(閉店)
☆二葉屋の佃もち(中央区佃)
☆しろたえのデリス・パンプキン(赤坂)
☆仙台・賣茶翁のみち乃くせんべい(仙台市青葉区)
☆ルコントのポンム・ド・テール(南青山)
☆小布施堂の栗鹿の子(長野県上高井郡)
☆上の風月堂の東京カステラ(上野)


もし、このサイトをのぞいてなつかしいお菓子の名前があったら、そのお菓子とあなたの出会いを思い出して見て!
1つや2つくらい、エッセイになるようなエピソードがあるものです。
今日のブログのテーマにどうぞ。
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by windowhead | 2007-07-06 18:04 | 至福の観・聞・読 | Comments(4)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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