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岡田ジャパンにメンタルケア専門家はいたのだろうか。

今回の日本代表でもっとも衝撃的だったのは、W杯現地で、本番寸前で戦術を変え、それによって中村俊輔選手が外れたことだった。
戦術が変われば、中心選手も変わるのは当たり前なのだろうが、、スポルティーバ誌の「中村俊輔と岡田監督の300日」にも書かれていたように、”攻撃の戦術やメソッドを持たない岡田監督は、毎試合、俊輔、中沢、遠藤を自室に呼び、相談をしていた。”その中心はやはり中村選手であり、岡田さんは就任当初から中村選手のサポートを求め続けていた。という。
中村選手も、それに応え、召集がかかれば万難を排して20時間近くかかるスコットランドやスペインから合流していた。
この4年間の中村俊輔は、ほとんど日本代表のために捧げてきたと言っても過言ではない。
日本代表は中村俊輔のアイデンティティとなっていた。

その選手が本番の数日前、急にお前はいらないと言われたわけだ。
戦術を変えるということは、調子が悪いから今回は他の選手に代えるということではない。これまでの戦術=中村俊輔を一切捨てるということだ。
「スポルティーバ」によると、岡田さんは控えに回した選手とは距離を置くようにしているため、俊輔に対する態度が急によそよそしくなったのをみて他の選手たちの間に震撼が走ったというほどだったらしい。
岡田さんから求められ、それに応えてきた中村選手は、そのアイデンティティまで否定されてしまった。
この苦悩は想像を絶するものだっただろう。

さらに追い討ちをかけるように、岡田さんは川口、楢崎、俊輔たちのサポートを記者たちに伝えるとき「年寄り組」という表現を使った。
普通ならベテラン選手という言葉をあえて「年寄り」と表現している。どの新聞もその表現を使ったところをみると、あえてそう書かせた意図を感じる。彼らはもうこのチームの戦力ではないんだと暗にマスコミに発信した言葉だろう。この言葉もマスコミなどを通して中村選手の耳にはいっているはずだ。

心が折れそうだったろうし、なぜ?という疑問も、不満もあっただろう。
しかし、それを表に出すとチームがギクシャクするといって、自分の中に押さえ込む。
また、周りにはマスコミの目もあるので、平静をよそおわなければいけない。
日本代表が終わったころ、中村選手は、とても辛かった苦しかったと答えている。これが本心だろう。

ある企業家の方のブログには、中村選手の状況を会社生活に置き換えて、とても自分には耐えられない状況だし、このようなやり方は、企業ではあってはならないと書かれていた。

おなじような苦しさは内田選手も抱えていた。移籍直前のインタビューで、「一人部屋にいるのが苦しかった。眠れなかった。こんな思いはもう二度としたくない。」と答えている。
二人の話の中にでてくるのは、一人で部屋にいる時や、夜寝る時に…という言葉だ。誰も彼らに寄り添ってくれる人はいなかったのだろうか。

日本代表には、メンタルヘルスケアの専門家は同行していなかったのだろうか。

2006年W杯時、他の国のチームには、複数の宗教の聖職者までスタッフにいれるところもあると聞いた。
選手の心のストレスをできるだけ軽くするための措置だという。限られたスタッフ枠の中であっても、選手の心のケアを司る専門家を入れるという。
2006年、日本代表スタッフには、メンタルケア専門のスタッフは入っていなかった。
2006年も心のケアが不要な状況ではなかったので、その反省として、次に活かすことになれば良いなあと思っていた。
今回の日本代表には、その経験は活かされていたのだろうか。

メンタルケアカウンセラーのような専門家がいたら、内田選手や中村選手の、心から血がにじむような苦しさも、少しは緩和されたのではないだろうか。

また、岡田さんは、戦術を変えるとき、選手達を納得させるだけの会話を試みたのだろうか。岡田さんにその時間がなければ、コーチやスタッフたちが、その試みをしたのだろうか。いつも岡田さんのチームでは、心を傷つけられる人がでてくるのは、なぜなのか(カズ、北沢、加地選手達もそうだ)

今回は、中村選手が、以前も辛い経験をし、ある意味内面の精神力が強い選手だから、このストレスをなんとか乗り越えられたのではないかと思う。
内田選手には、岩政選手という、同じクラブの先輩が、控え選手としていたので、少しは心の支えになったのかもしれない。
しかし、この状況は、なにかが起こってもおかしくない危険をはらんでいたと思う。

アスリートも人間であり、普通の人と変わりないのだ。
学校でも企業でも社会一般でも、心のケアは大切な問題として様々な努力がされている。
サッカー日本代表というトップチームの中で、心に傷を負った選手が、その責任は力のなかった自分にあると自分を納得させて切り替えるのが本当に正しいのか。
日本のサッカー界で、もう少し選手を大切にするという考え方が広まって欲しい。
シューズのケアをする専門家がチームにいるというのなら、選手の本音をきちんと受け止め、寄り添ってくれる専門家がチームの中に存在してもおかしくないはずだ。


中村俊輔選手や内田選手には、もう一度自分の心の傷をチェクして、専門家の力を借りてでも本当の健康を取り戻して欲しいと思う。
闘莉王選手の心にも、お父さんの病気だけではないなにかがあったのではないかと気になっている。
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by windowhead | 2010-07-24 15:07 | 紙のフットボール | Comments(8)

「龍馬伝」を史実ベースに整理してみる

「龍馬伝」、物語としては良くできているんだろうけど、大事な部分で史実を曲げているのが気になっている。
突っ込みどころは、いろいろあるが、ドラマはドラマとして、歴史的な流れだけは整理しておきたい。

一応、神戸海軍操練所が開設された年月、元治元年(1864)5月の周辺の出来事を史実に沿って並べてみよう。

文久3年(1863)9月、武市半平太が捕らわれる。
文久3年9月、勝海舟、神戸屋敷に門下生を住まわせ、龍馬を神戸海軍塾の塾頭にする
         (この海軍塾と、幕府の神戸海軍操練所は別物と考えたほうがよさそう)
文久3年10月 龍馬は勝とともに江戸に行く。

元治元年(1864)5月、勝が海軍奉行になる。幕府が神戸海軍操練所開設を布告し修業生の公募を開始
               このころ、岡田以蔵捕らわれる。
元治元年(1864)6月5日、池田屋事件、望月亀弥太が重傷を負い自刃
元治元年(1864)7月18日19日、 禁門の変(長州藩久坂玄瑞ら自刃)
元治元年(1864)8月中旬  龍馬、京都で西郷吉之助と会う
元治元年(1864)10月   望月亀弥太が池田屋事件にかかわったことなどから、
                  勝が幕府の信頼をなくし江戸に召還、11月に海軍奉行を罷免される
元治元年(1864)11月、 勝の斡旋で、龍馬たちは薩摩藩の庇護をうけることになる。
 
 このころから、翌慶応元年3月ごろまで、龍馬たちの消息不明。
 龍馬伝の脚本は、この不明時期を利用して、土佐に帰り、武市と会うシーンを設定したのだと思う。

慶応元年(1865)3月、幕府神戸海軍操練所廃止
慶応元年(1865)4月、神戸海軍塾の同志と共に薩摩藩船胡蝶丸に乗り込み、鹿児島に向かう
慶応元年(1865)5月 神戸海軍塾の同志、薩摩藩と豪商小曽根家の援助を受け(亀山)社中設立を計画する
慶応元年(1865)閏5月11日 武市半平太切腹、岡田以蔵処刑

ドラマでは、武市の切腹は、龍馬が忍びで面会したすぐ後のような感じに作られていたが、史実では、翌年、亀山社中が結成されるころで、武市、以蔵は牢獄につながれていたのだ。


これだけではない。
実は、もっと大きなことが、ドラマでは描かれていなかった。

元治元年2月23日から4月4日まで、龍馬と、高松太郎たち数人の塾生は、軍艦奉行勝海舟に随行して、長崎に滞在しているのだ。
これは、勝海舟日記にも書かれている。幕府の神戸海軍操練所開始の前に、彼らは長崎を体験しているということ。

ドラマでは、まだ長崎に行った様子がない。しかしドラマで描かれている出来事は、すでに、元治元年2~4月を過ぎている。この時間的な矛盾が、ドラマを見ていて、どうしても流れがしっくりいかず、頭の中がごちゃごちゃになる理由なのだとわかった。
ドラマと史実は違うということは分かっているが、長崎初体験がいつかということは、龍馬の世界観の大きな柱と思うので、ちょっと納得がいかない部分でもある。

いずれにしても、来週7月18日から、「龍馬伝」の龍馬たちは長崎で動き出す。
当時の長崎は、彼らにとってとんな世界だったのだろうか。その反応がたのしみでもある。


さて、その、長崎で、龍馬の志を歌った歌がつくられた。
市井の人々によって、ひっそりと作られた歌だが、格調高く美しい。
ぜひとも皆さんにも聞いて頂きたいし、できればお知り合いに広めていただきたい。

http://50s.upper.jp/ に アクセスして、聞いてください。
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by windowhead | 2010-07-12 15:53 | Comments(5)

サッカー日本代表選手の所属は「日本代表」ではないのに…。

W杯南アフリカ大会で16強入りの快挙をあげたが負けて帰国したサッカー日本代表。
敗戦しての帰国に4000人が集まり、感動をありがとう!と叫んでいるのに、選手達はびっくりしただろう。
そして、僕達のやったことが存在が感動の対象になっているんだと、少しづつ実感していることだろう。

彼らが負けて1週間がすぎたが、テレビ番組の世界では、相変わらず彼らの話題があとをたたない。
松井選手や長谷部選手、阿部選手、長友選手(のGUAPO三兄弟)が、毎日のようにTV番組に登場する。
駒野選手もいろいろと担ぎ出されているみたい。
本田選手の幼稚園や小学校まで知ってしまった。
いまでは、顔写真をみせられると、本田選手のおじいさんだ、長友選手のおねえさん、長谷部選手の少年時代のコーチだ、遠藤選手のおかあさんだ、と選手達の家族や関係者の顔がすぐにわかるほど。
さらに彼らの生い立ちのことやサッカー小僧としてのエピソードも近所のおじさんおばさんのように知っている。
たった1週間くらいで、これほどの情報が飛びかうぐらい代表選手たちは「時の人」なのだ。

そんな中で、ちょっと気になっている。

代表選手たちを扱うニュースや番組の中で、選手達の所属クラブの名前だけが、すっぽりと抜け落ちている気がするのは私の思い過ごしなのか。

選手達はそれぞれに所属クラブがある。
W杯というサッカーのお祭りが終われば、日常の選手活動が始まる。彼らは所属チームの一員としてプレーをする。
それなのに、彼らの選手生活の土台であるそれぞれの所属クラブの名前が出てこないのはなぜなのだろう。

今回の日本代表大フィーバーで、駒野選手の生い立ちは知っても、彼がジュビロ磐田の選手だと言うことを知っている人は、どれくらいいるだろう。
本田選手がモスクワやオランダで活躍していることは知っているが、彼が移籍する前所属していたJリーグのチームがどこだったのかを知っている人はどれくらいいるだろう。
本田選手を育てたのは、家族や恩師だけではないはず。サッカー選手として、ガンバ大阪ユーズや、名古屋グランパスのスタッフ、先輩、仲間たちの力もあったと思う。
彼らを応援し続けたのは、後援会や地元ファンや代表ファンだけではない。チームサポーターという存在も忘れてはいけないはずなのに。

サッカー日本代表大フィーバーなのでJリーグファンも増えるだろうと期待されているが、本当にそうなるだろうか。
「Jリーグ」はチームではない。彼らのプレーを見たいなら、それぞれの所属チームがどこか、いつどこで試合を見られるのかを知らなければならない。
せめて彼らが登場するテレビ番組で「日本代表・長友 佑都(FC東京)」と表記してほしい。
また、できれば選手のみなさんにも、「サッカー日本代表の長友 佑都選手です」と紹介されたら、すかさず「FC東京所属の長友 佑都です」と応えてほしい。
(ここで、長友選手を例に挙げているが、これは、長友選手へのリスペクトだ。彼は、一昨日、ある番組で、「JリーグとFC東京を応援してください!」とチーム名を挙げて応援を求めていた。さすがです。)

今の日本代表選手たちを育ててきた一番の土台は、やはりJリーグ各チーム。
日本代表フィーバーが続いていくにつれ、サッカーとはだんだん離れていっているような寂しさを感じる。
取り上げる側にもう少しサッカーへの愛があってくれたらなあ。
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by windowhead | 2010-07-05 13:49 | 紙のフットボール | Comments(0)

これに比べれば02年の代表落選なんて「かすり傷」だよ-(中村俊輔)

「もういい」は、「代表でプレーするのはもういい」だった。
中村俊輔の代表への決別は「もういい」という言葉で締めくくられた。
10年近くも日本代表の10番を背負って、日本代表を支え続けた選手が自ら代表に決別する。
引退という言葉より、決別という言葉のほうが、なぜかしっくりくる。

代表への思いをすっと掲げ続け、求められればどんなに遠くからも、どんなに厳しい状態であっても,
どんな犠牲を強いても日本代表に合流して先頭に立って戦ってきた中村俊輔。
スペインでの挑戦もW杯のために半ばあきらめ、スペインでの失敗者の汚名を甘んじて受けながら代表を選んだ選手が、苦しみと悔しさを抱えて代表に決別する。

中村俊輔が、この10年間日本人サッカー選手としての人気のトップにいたのは、彼の日本代表への献身的な姿と希望につながるプレーが、子供たちのをはじめとする純真な心に訴えかける”何か”を呼び起こすからだ。
32歳の3児のパパになっても、サッカー少年たちから「しゅんすけ」と愛着を持って呼び捨てにされる雰囲気は、大人の男たちには物足りなかったかもしれないが、そのキャラクターを変えることなく等身大の自分を見せ続けてきた。

南アフリカの地で、苦しみながらも平静を装いチームに尽くした男が、試合終了後、ビブスを脱ぐ姿がほんの数秒映し出された。あれはビブスと一緒に、本当の中村俊輔を閉じ込めていたものを脱ぎ捨てたのかもしれない。

本当の中村俊輔は、また心に突き刺さる言葉を残して、日本代表に決別する。ぎりぎりの状態でも辛さから逃げなかった男の言葉は等身大だからこそ感動的だ、。

「サッカー人生で一番つらい試練?これに比べれば02年の代表落選なんて「かすり傷」だよ」



スポーツの世界には、記録だけでなくその人の人生を語りたくなる選手が稀にいる。それがまぎれもないスター選手なのだろう。
中村俊輔もその一人。彼の言葉は、その言葉が独り歩きするほど独特で真理を含む。

彼をテストしたサッカーの神様は、きっと中村俊輔にひとりの「サッカーびと」としての道を指し示してくれたのだろう。
いろんなものを背負いすぎてきた中村俊輔の羽はいつのまにかちぢこまっていたのかもしれない。
その羽を思いっきり羽ばたかせるために、いちど重石をすべて取り払ってくれたのだろう。
「中村俊輔が、ただの”中村俊輔”になって、思いっきりピッチを走り回る姿を見たい。」俊輔ファンの多くが心の底で感じていたのはそんな思いなのだ。

中村俊輔のイマジネーションとサッカーの羽が蘇るのは、そんなに遠くないはず。
傷を癒した後、不死鳥は、さらに大きな羽をつけて、Jリーグのピッチを駆け回るだろう。

私も含めて、多くの中村俊輔ファンは、期待を込めて待っている。


お祭り騒ぎは見せてくれないが、希望につながる道を見せてくれる稀有な存在。
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by windowhead | 2010-07-01 14:06 | 10-25shun | Comments(10)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


by windowhead
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