<   2011年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧

土方歳三の辞世らしい歌が発見されたとか


「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」

2週間ほど前、知人が「土方歳三の句が出てたよ」とのメールをくれた。
正確には、句ではなかったが、たいへんうれしい発見だった。

土方歳三辞世に新説
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110615-OYT1T00681.htm?from=y10

リンク切れになる可能性があるので、一応よみうりオンラインから転載させてもらった。(写真も掲載されていたが、それまではちょっと、ね)
新撰組副長・土方歳三(1835~69)と最後まで行動を共にした隊士・島田魁(かい)(1828~1900)がまとめたとされる和歌集の巻頭歌が、土方の辞世と考えられるとの説を、幕末研究で知られる霊山(りょうぜん)歴史館(京都市)の木村幸比古・学芸課長が打ち出した。
「従来、辞世とされてきた歌は詠んだ日時の推定が難しいが、巻頭歌は間近に迫る死を覚悟した内容で、亡くなる前日に詠んだ可能性が高い」としている。
歌は「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと(鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと)」。島田家に伝わる和歌集の冒頭に土方の名で記され、和歌集は26年前に同館に寄贈されていた。
木村課長が今年、修復にあわせて、ほかに名のある30人を調査、大半が新撰組隊士や幕府側の藩士らで、戊辰(ぼしん)戦争(1868~69)で降伏し、長く生きたことがわかった。自然のはかなさを詠んだ歌が多く、維新後に隊士らが作り、島田がまとめたと判断した。
土方は、旧幕府軍の指揮官として戊辰戦争に加わり、新政府軍の総攻撃を受け、銃弾に倒れた。生き残った藩士らの証言などによると、その前夜、旧幕府軍幹部らが惜別の宴(うたげ)を開いていた。木村課長は「歌には悲壮な決意が示されており、土方が明日の死を予期しながらこの席で詠み、島田が大切に記録していたのでは」と話す。
(2011年6月15日14時49分 読売新聞)


これまで土方の辞世の句とされているものは
明治7年 小島守政の「両雄逸事」 のなかにある

「よしや身は蝦夷が島辺に朽つぬとも魂は東の君や守らむ」

※その後、 小島守政の「慎斎私言」、橋本清淵の「両雄士伝補遺伝」 では、「たとい身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君や守らむ」となっている。

この辞世は、どことなく、吉田松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」に似ているということで、いろいろな説があるようだ。
私が聞いているものは、おそらく一番一般的なものだろうが、土方が負傷し湯治した東山温泉で松陰の辞世を知ったというもの。
土方が投宿していた「清水屋」には、嘉永4年に吉田松蔭と宮部鼎蔵が宿泊した事があり、清水屋の主人から松蔭の話を聞いた土方が、その信念を通す生きかたに感銘した。そこで知った松陰の辞世を参考に、自分の辞世を詠んでいたというもの。
これには、いろいろと突っ込みどころがあるが、「言い伝え」というのはそんなものだろうと思っている。

ただ、私が思い描いている土方歳三と、この辞世は、なんとなくしっくりこない。
松陰の東の君は天皇のことだろうが、それなら土方の東の君はだれ?
すでに守るべき徳川も会津もない。朋友近藤勇のことか。自分が最後まで武士らしく戦うことで士道に殉じた近藤の名誉を守ると言う意味とも取れる。
それに、若い頃から俳句を嗜んでいた土方が、いくら感動したとはいえ、他人の歌をまねるだろうか。
たしかに、和歌には本歌取りという手法があるが、これほどわかりやすく元歌を連想させる歌を詠むかなあ。

それに比べると、今回発見された和歌は、いかにも土方歳三らしいと感じた。
冴え冴えとした月の光に照らされた戦士たちの屍。戦士たちが抱えていた憎しみも恐れも虚無感も浄化させてしまうような月の光の美しさと悲しさを感じる。
少なくとも、この和歌のほうが、歌詠みや発句の経験者の歌だと思う。

土方歳三の若い頃の発句集「豊玉発句集」の巻頭の句は

「さしむかふこころは清き 水かがみ」

静かな水面(水鏡)に向かって、自分の心は今一点の曇りもないという句。
このあと、40首の自然を織り交ぜた句が続く。
ほんわりと暖かさを感じさせる句が多く、冷徹な土方のイメージから遠い。
春の月が出てくる句も多い。
発句集の最後の句は、「梅の花咲かるるだけにさくと散」
これが〆の句というわけでなく、時間があれば、まだまだ発句は増えていっただろう。
しかし、京都に行って、彼の人生はたいへん忙しいものになった。
発句する繊細な心を遊ばせるほど京都での彼の毎日はやさしくなかった。
5年間走り続けて、北の大地でやっと心を遊ばせる時間ができたのかもしれない。
箱舘に渡ったメンバーに、中島三郎助がいた。
浦賀の与力としてペリーの旗艦に乗り込んで交渉役を務め、長崎海軍伝習所の1期生になり、その後、軍艦教授、軍艦頭取を歴任した人物で、彼も俳諧が趣味だった。
蝦夷地の長い冬、有志があつまって句会を開いたらしい。
中島三郎助は土方を誘ったかもしれない。
旧幕府軍の主要ポストに付いていた人で箱舘で戦死したのはこの二人だけ。
二人の共通点に俳諧、発句があるのも何か因縁を感じる。

「豊玉発句集」の最後に、発句ではないが、
「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」を置いてみよう。

巻頭の水鏡の句と共通する空気感があると思うのは私だけかな。

この和歌が、本当の辞世かどうか。
そうなるとこれまで辞世として伝わっていた和歌はどうなるのか。
まだまだ不明な点がたくさんあり、時間がかかることだろう。
私にとっては、どちらが辞世の歌だったかということはあまり大きな意味を持たない。
それより、私のイメージに近い土方歳三の和歌が出てきたことがうれしい。

できれば、この島田家に伝わる和歌集に収められたすべてを読んでみたい。
ぜひとも出版物として、私たちの手に入れられる物にしていただきたいとお願いしたい。
[PR]
by windowhead | 2011-06-27 15:13 | Comments(0)

サムライブルーの料理人

b0009103_4145797.jpg「サムライブルーの料理人 …サッカー日本代表専属シェフの戦い 」 
 西芳照著 
 白水社



西さんが代表海外遠征帯同シェフを打診されたのは2004年3月、W杯ドイツ大会アジア1次予選シンガポール戦。
それから6年以上、日本代表のスタッフとして選手達の「食」を支えてきた一流シェフの奮戦記。
人柄を表すようなていねいでやさしい語り口で書かれているので、物語を読むようにすんなりと入っていける。

専属シェフとして第一に求められたことは選手が口にするものの「衛生管理」。それを根底に、栄養を考え、食欲を落とさない食事を提供する。その方針に則って、国内での準備、現地での食材調達、現地宿舎の調理スタッフへの指導、協力しての調理と休む暇もないが、日本代表スタッフの誇りと美味しく食べてもらいたいと言う料理人としての気持ちが溢れていて、その大変さを重く感じさせないさわやかさが漂う。

ジーコ監督時代のW杯予選、コンフェデ杯、ドイツW杯、オシム監督時代のアジア杯、岡田監督になってからの予選と南アW杯と、食事シーンやオフタイムでの選手達のエピソードもたくさん盛り込まれていて、これまで記者やライターたちが書いてきた代表とは違った側面からチームや選手達を知ることもできる。
南アW杯の様子は、献立とともに日記形式で詳しく書かれている。
高地対策として取り入れた圧力釜にまつわるエピソードは、西さんの情報収集能力の高さと料理を通しての温かい交流が感じられ心に残る。

それでも、この本の真髄は、前半のドイツW杯が終るまでの部分だと思った。
試行錯誤しながらも、ライブクッキングなど新しい方法を考え出し実行しながら専属シェフとして成長していく西さんと、それを支えるスタッフ仲間やそれに応えて「おいしい」と平らげる選手達との絆が強く感じられるからだ。スタッフと選手が協力しあいながらともに成長していっている。

たとえば以下のようなエピソードが書かれている。
中村俊輔選手は海外遠征に出ると、滞在初日の食事のときに真っ先にやってきて「西さん、このホテルの厨房スタッフとは仲良く仕事ができている?」と聞いてくれます。
「いや、まあ、いろいろありますよ」と冗談交じりに言うと、現地スタッフのところに行ってジョークを交えながら話をして気持ちをほぐしてくれたりします。
現地のスタッフの中に一人で飛び込んでいく私が、働きやすいようにしてやろうという配慮からなのです。中村選手はいつもそうやってさりげなく周囲の人達への気遣いをしてくれる人です。

若い頃から海外遠征を経験し、海外移籍によって海外で一人生活している(当時)中村選手は、信頼できる人が調理してくれる食事の安心感がどれほど大事かを身をもって経験しているからこそ、専属シェフへの感謝の気持ちがその行動をとらせたのだろう。
ジーコ監督時代、中村俊輔選手のこのような姿を書いたライターも記者もいなかったと思う。
西さんへの感謝の気持ちは、中村選手だけでなく全選手が感じたことで、ドイツ大会予選が終ったあと、選手たち全員がお金を出し合って慰労の金一封を贈ったりしている。

ドイツW杯時は、「西さんもチームの一員だから」という言葉とともに、日本代表のエンブレムと24番を付けたシェフコートとキャップが用意された。
ドイツW杯は、残念な結果に終ったが、2006年ドイツで戦った仲間たちはすばらしいチームだったと今でも思っていると西さんは書いている。
アジアや中東で厳しい予選を、反日運動真っ只中の中国でのアジア杯を、ドイツでのコンフェデ杯を、そしてあのドイツW杯を、立場は違っても、西さんは選手と同じ気持ちで戦ってきたのだろう。
この経験があるからこそ、南アW杯での代表の躍進を支えられたのだと思う。

2011年1月、ザッケローニ監督率いる日本代表のアジア杯にも帯同した西さん。
若い選手達で盛り上がる食事会場、カタールでむかえた49歳の誕生日をチーム全員に祝ってもらい、さらに料理人として成長する決意を新たにしたという言葉でこの本は終っている。



あの3月11日、西さんが愛した故郷・南相馬市と職場であるJヴィレッジも被災地になってしまった。
「季刊サッカー批評51号」に掲載されている「Jヴィレッジの存在意義」という木村元彦氏のレポートの中に、被災時の西さんの様子が書かれていた。
「…300人以上の人々が体育館に避難していた。宿泊者、地元の人、国際交流で訪れていた上海の日本大使館の子供たちもいた。そこで、日本代表のシェフ西芳照の陣頭指揮の下、スタッフによる炊き出しが夕方行われた報告を受けた。
翌12日朝も300人分の炊き出し、夜をどうしようかとしていると避難指示がだされた。…中略…Jヴィレッジは週末にかけて食材をたくさん仕入れていた。電気がとまっては食材が腐ってしまうと西シェフが言うので持ち出してきた。プロパンのボンベや寸胴なども最低限見繕って持って出ていたので、またも自発的な炊き出しで800人に温かいものが提供できた。14日の朝までJヴィレッジのスタッフは炊き出しを続けた。…後略」


西さんの印税の全額は、東日本大震災の被災者に対する義援金として福島県南相馬市に寄付されると巻末に記載されている。
[PR]
by windowhead | 2011-06-22 04:32 | 至福の観・聞・読 | Comments(1)

楽しまなかったらサンフレッチェじゃないだろう

「楽しまなかったらサンフレッチェじゃないだろう」
雑誌「number」の最新号のなかで、サンフレッチェ広島のミハイロ・ペトロビッチ監督がそういいはなっている。

ミシャ(ペトロビッチ監督)は監督就任以来ずっとこの姿勢だ。
勝った試合でも、積極性のない戦い方であれば選手たちにダメだしする。
負けた試合でも、サンフレッチェらしいプレーであれば、その姿勢を評価したコメントを出す。
楽しいサッカーをしようじゃないか!というメッセージがチームに浸透している。
それが、見る人をひきつける。

楽しいサッカーをみせるためには、選手は相手以上のハードワークが求められる。
やらされるハードワークより仕掛けるハードワークが楽しいだろう。
サンフレッチェはアイディアあふれるハードワークが一番!というチームだからあれだけ走れるし決められるんだと思う。

サンフレッチェの試合では、ピッチ際で選手に指示を与え鼓舞するペトロビッチ監督の姿がある。
団子鼻の気の良いおじさんのような監督と、女性と見紛うばかりの美しい横顔の杉浦大輔通訳コーチのツーショットを観るのが楽しみだ。
毎回感心するのは監督のスーツのズボン。
シワひとつない。
ベンチに座れば、股関節部分やひざ裏部分に座りシワができるが、ミシャのズボンにはシワがない。
オフに故郷で股関節の手術をしたほど足の状態が悪いはずのミシャだが、いつもずっと立ちっぱなしだ。
選手と一緒に闘っている。シワのないスーツはその証。

リビングのTVでプレーを観る私は、好きなチームや好きな選手が勝てば気を良くするが、負けると気に食わない選手にダメだししたくなる。
まるで監督のような目線であーだこーだと選手のプレーやメンタルを批判している。
見る側応援する側のそんな目線は、時と場合によっては選手に有害なプレッシャーになることだってあるかも。
負けたとき、「負けたけれど、今日の試合は楽しめたか?」という見方をしてみようかな。
選手たちが、サッカーを楽しんでいたかどうかという見方もありかな。
ワクワクさせてくれたら、たとえ負けても「ありがとう」と言えるサッカーファンでいたい。

「ゲームはお祭りなんだから思い切ってやってこい」と選手を送り出し、「楽しまなかったらサンフレッチェじゃないだろう」と言い切るミシャのサッカー観に魅了される。

もっと選手を信じて、もっと楽観的にサッカーを楽しもう。
たった2ページのレポートだが、ミシャのサッカー観とサンフレッチェサッカーの魅力の根源を知るだけでなく、サッカーファンの気持ちも温かくしてくれる魅力があった。


そのほかにも
天才のエゴイストと思っていたモウリーニョが実はたいへんな気配りの人であり、チーム、選手、スタッフへの攻撃にはいつでも矢面に立つ潔さの人だと知った。
(先のW杯後、知将と褒め上げられていた岡田さんとは、似ても似つかない。本物には人の心に対するデリカシーが備わっているんだ。)

この人こそ知将と呼びたいオシムさんは、今一国の代表監督以上の大きなミッションを背負って祖国のサッカーのために苦難に立ち向かっている。
オシムの祖国愛とサッカーに対する覚悟を感動しながら読んだ。
[PR]
by windowhead | 2011-06-14 03:15 | 紙のフットボール | Comments(0)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


by windowhead
プロフィールを見る
画像一覧