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「空白の天気図」を読む

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「空白の天気図」 
柳田邦男 文春文庫


69年前の8月6日、人類史上初の原子爆弾で20万人以上の人々が亡くなる壊滅的な被害を受けた広島だが、その約1ヶ月後の9月17日、追い打ちをかけるようにこの地を未曾有の天災が襲った。
枕崎台風。
916,1ヘクトパスカルという当時の観測史上2番目に低い海面気圧の大型台風は焦土と化した広島の街で吹き荒れ、原爆から生き残った人々は身を隠す場所もなく暴風雨にさらされる。そのような中で洪水や山津波が起こり、無防備な人々を飲み込んでいった。
枕崎台風による全国の死者・行方不明3756人,広島県だけでその半数以上の2012人の死者・行方不明がでる大惨事となった。

戦時下で気象情報は国の機密事項になる。開戦日から国民は天気予報のない生活をおくることになったが、気象観測は日本各地や南方の島々で続けられ、そのデータは暗号化されて逐一中央気象台に送られ、天気図が作成され、軍はそれを作戦に活用した。
8月6日、広島気象台の職員たちはいつものような観測の最中に被爆した。幸い建物は倒壊せず気象データは守られたが、それを中央に送るインフラが消滅した。同時に中央からの情報も届かなくなり、新型爆弾がなんであったのか知らないまま、観測を続け、被害調査をし、そのデータを送る手段を求めて歩き回る日々が続いた。
国が敗れても気象観測は続けられた。8月22日、NHKラジオで天気予報は復活したが、広島はまだ焦土のさなかだった。通信インフラの破損で中央からのデータが届かない中、広島気象台が観天望気で予測した台風情報だが、人々に知らせる術がない。役場への通達と気象台屋上にかかげた吹き流しで警報を知らせるしかなかった。

自分たちも放射線障害に苦しみながら日常の観測と原爆や台風に寄る被害調査を続け、その情報を守り続けた広島気象台の人々の奮闘を描いた本作は、昭和50年に初版出版されたものだが、2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけに「核と災害 1945.8.6/9/17」という副題を添えて再文庫化されている。



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長崎市茂里町にフットボール専用スタジアムの実現を!
~建設に向けて10万人署名活動実施中~

WEB署名はこちらから!

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by windowhead | 2014-08-29 06:43 | 至福の観・聞・読 | Comments(0)

長崎市でも「フットボール専用スタジアム」へのweb署名開始

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3日ほど前、浜の町で、フォトグラファーの山頭さんを見かけた。いつもVファーレン長崎の試合会場でお見かけするが、あまり繁華街とは縁のなさそうな山頭さん、何してるんだろうとお声をかけたら、長崎市の茂里町にフットボール専用スタジアム建設に向けてのPRと署名活動とのこと。
PR用ののぼりを設置しているのは、スポーツ文化新聞「ola!」編集長の植木さんだ。
お二人から渡されたのが上に掲載したカード。さっそくweb署名した。


2年ほど前、広島の市民球場跡地にフットボール専用スタジアムを!という署名活動が伝わってきたのでweb署名したことがある。ガンバ大阪も専用スタジアムへの改修を始めているようだ。
フットボール専用スタジアム建設は時代の趨勢なのかな。
Vファーレンが使っている諫早の長崎県総合陸上競技場スタジアムは、とても見やすい、良い環境だが、トラックがある。フッtボール専用スタジアムはトラックがないぶん、見やすさと臨場感はさらにアップする。
諫早にあるからいいじゃないと思う人もあるだろうが、スタジアムが複数あれば、それだけ身近にサッカーやラグビーを楽しめるし、他競技にとってもプラスになることも多いはず。
建設が決まっても、用地の関係ですぐさま建設できるわけではない。2019年あたりを目標にしているようだ。

詳しいことは、プロジェクトのホームページに書かれている。
「(仮)茂里町スタジアム」プロジェクトhttp://www.n-footballstadium.com

プロジェクト設置の経緯などを取材したメディアの記事はここ

建設に向けての「10万人署名」は、長崎市民、県民はもちろん、県外の人の署名も歓迎している。
まずは、県外在住のVファーレン長崎ファンの方、県外在住の長崎出身の方、サッカーファンのみなさん、長崎の「フットボール建設」10万人署名に協力してください。


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茂里町にフットボール専用スタジアムの実現を!
~建設に向けて10万人署名活動実施中~

WEB署名はこちらから!

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by windowhead | 2014-08-27 02:22 | Vファーレン長崎 | Comments(0)

幕末の長崎人・森山栄之助 ②

 ロシア艦隊が長崎を離れて10日もたたない安政元年1月16日、再びペリー艦隊が姿をみせた。森山は休む暇もなく江戸に向かった。
煮え切らない幕府の態度に苛つくペリーに「わが国は今、暗闇から太陽の輝く場所へ出てきたばかりです。もう少し時間をいただきたい」と応じた森山の高度な表現力は彼らを驚かせた。首席通訳官ウイリアムズは「森山は他の通訳がいらないほど英語が堪能だ。彼はプレブル号船長たちの安否を聞き、マクドナルドは元気だろうかと気遣かった。彼の教養の深さと育ちの良さは我々に好印象を与えた」と書いている。
横浜村での日米和親条約の交渉が始まった。応接掛首席全権は林大学頭で、主席通訳に森山がついた。互いの挨拶のあと、ペリー側から今後の交渉は書面で確認したいと提案があり、漢文とオランダ語の条約草案が提出された。オランダ語は森山らが日本語に訳し、応接掛は漢文と付き合わせて内容を確認する。日本側も同じように漢文とオランダ語に訳したものをアメリカ側に渡すというやり取りを行っている。交戦を臭わすようなペリーの言動に対しても林大学頭は相手の誤りを指摘しながら粘り強く妥協点を求めていった。細則など実務的な交渉は、場所を下田に移して続いた。横浜と下田での交渉の間、森山らは通訳、条約文の翻訳、アメリカ側訳文との付き合わせのほか、米艦に出向いて細々したことの打ち合わせまでこなしていた。アメリカ公文書館には、日本語版、英文版、漢文版、オランダ語版の日米和親条約が残所蔵されているが、オランダ語版の末尾には筆記体で書かれた森山の署名が残っている。

日米和親条約の締結は、アジアに進出していた国々を刺激した。イギリス、オランダとの条約交渉が始まった。さらにロシアのプチャーチンが下田に到着し、日米和親条約並みの条約締結を迫った。幕府は川路聖謨たちを派遣し交渉に当たった。この通訳に任命される直前、森山は普請役として幕臣に取り立てられた。34歳だった。
プチャーチンとの交渉の最中、安政大地震による津波が下田を襲い、ロシア艦ディアナ号が沈没してしまった。幕府はプチャーチン一行に戸田村で帰国用の洋式帆船建造を許可し、森山は世話役として戸田に残った。幕府には洋式船建造という目論見があり、技術移転のためにロシア人と意思疎通できる者を常駐させておきたかったのだろう。

安政3年7月、ハリスがアメリカ日本総領事として下田に入港した。
領事常駐は日本には寝耳に水だった。日米和親条約の条文にどちらとも読み取れるあいまいな部分があり、そこを突かれたかたちになった。主席通訳だった森山は大きな責任を感じだことだろう。幕府は、ハリスと通訳ヒュースケンの世話を森山に命じた。ハリスによるとそのころ森山は「栄之助」から「多吉郎」に改名したようだ。ハリスと結んだ「下田協約」「通商条約」のすべての交渉に森山は通訳として係った。さらに、全権の井上信濃守たちが寝込んでしまいハリスとの交渉を森山一人に託すという事態まで起こっている。交渉決裂なら戦争も辞さないというハリスの脅しに「いわれのない戦争をできるはずがない」と応戦したり、泣き落としに出たりとなかなかしたたかな森山の交渉であったようだ。条約締結にはもう1つの難関があった。孝明天皇が大の攘夷論者であったため、国内に条約反対の世論が巻き起こっていた。大老になった井伊直弼は保守的な考えだったが天皇の意向によって幕政が動かされることに危機感を持ち、条約締結を容認、安政5年6月、日米修好通商条約が調印された。

幕府はその後、オランダ、ロシア、フランスとの修好通商条約に調印。
中国を半占領的に開国させたイギリスとも友好的に日英修好通商条約を結んだ。このとき将軍に献上された「エンペラー号」は後に「蟠竜丸」と改名され箱舘戦争で活躍した。森山はこれらすべての条約調印に係るという多忙さだった。このころの森山の印象を英国エリギン卿秘書オリファントは「淑女のように控えめだが、その裏に限りなく老練で機敏な常識を秘め、交渉では終始重要な役割を果たしていた。まるでタレイラン(フランスの有名な外交官)のような外交官だった」と記している。条約締結にあたった外国人の認識では森山は単なる通訳ではなく外交官の役割を果たしていたということだろう。

攘夷によるテロはますます激しくなり、ヒュースケンの暗殺やイギリス公使館襲撃など、在日外国人にまで及んでいった。攘夷運動の激しさや経済問題のため各国と結んだ条約の期限内履行が難しくなり、文久元年12月、幕府は各国に条約履行延期を求める遣欧使節団を派遣することになった。
使節団の出発のすぐあと、森山の海外渡航が実現する。
イギリス公使オールコックが使節団のバックアップのため帰国することになり、その随行に森山を指名したのだ。突然の海外渡航、それも従者が付かないプライベート旅行だった。
文久2年2月22日、オールコックと森山、外国奉行調役・淵辺徳蔵の3人はオランダ軍艦に便乗して横浜を出港した。この渡航を森山がどれほど待ち望んでいたか、オールコックの著書「大君の江戸」の中にその姿を見ることができる。途中何度も船を乗り継ぎ、3か月後ロンドンに到着するまで、多くの船客たちと交流し、船上での舞踏会や音楽会を楽しんだり、オールコックの知人の家に招かれたり、ときには森山と淵辺の二人だけでレストランでの食事をとったりと、初体験に臆することなく積極的に楽しんでいる二人との旅はオールコックにとっても満足のいくものだったようだ。「彼らはその控えめで穏やかな物腰でいたるところで友人を作った。森山は流暢なオランダ語でオランダ人とすぐに打ち解けていたし、英国人とも十分に情報交換できるだけの英語力を発揮していた。2人の同行を後悔するようなことは一度もなかった」と書いている。この時、淵辺はまったく外国語が話せなかったが、彼の「欧州日記」には各地で出会った人のことやオールコックからの情報が数多く盛り込まれている。おそらく森山が一生懸命通訳して淵辺との情報共有を心掛けたのだろう。

ロンドンに着いた彼らは先発の使節団と合流して、早速幕府から託された開港延期の交渉に挑んだ。それまでの条約はすべて日本の地で行われたが、このロンドンでの交渉は日本人が本国を離れ初めて海外で挑んだ外交交渉だった。開港延期も「ロンドン覚書」という代償付きで英国側の承認を得、使節団はフランス、オランダ、ドイツ、ロシアと回って「ロンドン覚書」に沿った開港延期の承認を得た。後年福地源一郎が自伝でこの交渉で屈辱的な税率を決めたと書いたため、ロンドン覚書は日本に大きな不利益をもたらしたというのが通説になっているが、実際の覚書には具体的な税率はどこにも書かれていない。一律5パーセントの屈辱的な関税率が決まったのは、その後長州が引き起こした馬関戦争での賠償金と引き換えに決まったというのが真実なのだ。

森山たちが欧州を回っていた約1年の間に国内情勢は大きく変化していた。東禅寺事件、生麦事件など外交問題に発展する事件が起こり、攘夷の勢いは幕政を揺るがすまでになっていた。帰国した使節団は、その成果を賞賛されることもなく、その経験を伝達する場もなく表舞台から姿を消さざるを得ない状態だった。森山が再び外交の表舞台に登場するのは、慶応2年ベルギーやイタリアとの条約締結の場で、イタリア使節アルミニヨンは「森山は海外で有名な人物で、彼が出席するということはその会議の重要性を示している」と書いている。

慶応3年、森山は外国奉行組頭として兵庫で居留地造成など開港準備にあたっていた。
10月14日の大政奉還で徳川幕府は消滅したが、開港準備は進められ12月7日予定通り兵庫開港式を迎えた。その2日後王政復古の大号令が発布され、戊辰戦争へと突入していく。その混乱の中で、森山は大阪のイギリス領事館を訪れ、通訳官アーネスト・サトウに、将軍が冠位を返上し、大阪に移ったことを伝えている。将軍慶喜が密かに江戸に逃れ、大阪は大混乱に陥った。兵庫奉行柴田日向守と森山は大阪に集まっていた諸外国の交渉団を兵庫居留地に受け入れた。森山たちは居留地運営をその使節団に任せると、英国船オーサカ号を借入れ、兵庫奉行所の役人や最後まで大阪城に残っていた人々を乗せて江戸に向かった。

政権交代があっても国家にかかわる外交は中断できないため通詞や外国方はそのまま外交事務の処理にあたっていった。そのため、明治新政府にそのまま登用される人たちも多くいたが、その中に「森山多吉郎」の名前はなかった。
通訳をしながら横浜で暮らし、明治4年3月15日、51歳でこの世を去った。
幕末日本の外交の中心にいながら、黒子に徹した半生だった。しかし、森山はそれを悔いてはいなかっただろう。日本の国際化に少しは貢献できたという自負はあったに違いない。ただ、「もういい」という気持ちだったろう。「他人の言葉で外国人と付き合うのはもういい。これからは、森山栄之助として自分の言葉で外国人と付き合いたい」それが、彼の本心ではなかっただろうか。短い間だが外国人で賑わう横浜で彼本来の姿を生きたのだと思いたい。

明治以降の歴史認識は徳川幕府の否定から始まっている。
幕府が諸外国と結んだ条約も治外法権や貿易の不均等など欠点ばかりが指摘されているが、アジア諸国のように植民地的な支配を受けることなく一独立国として平和的な開国を勝ち取ったという側面を再認識してもいいのではないだろうか。それによって、歴史の襞の中に消されていった開明的な幕臣や優秀な外交官の存在が浮き上がってくるだろう。彼らの活躍を知ることで、日本人に刷り込まれた欧米コンプレックスが少しだけ変わるかもしれない。
そしてもう1つ。幕末維新のヒーローたちに国際的な視点を与えた長崎に、郷土が生んだ国際人「森山栄之助(多吉郎)」のことをもっと知ってもらいたい。自己のルーツとなる故郷で忘れられた存在になっていることが森山栄之助にとって一番の悲劇ではないだろうか。
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by windowhead | 2014-08-26 01:32 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

幕末の長崎人・森山栄之助 ①

もう2年前になるだろうか、幕末関係の書籍の出版企画があり、原稿依頼が来たので、ぜひとも書きたかった森山栄之助のことを書こうときめたが、企画の人選に森山は合わないということで、他の人物を書いた。そのとき、すでに森山についてのことをまとめていたが、その後手をつけてないままだった。
ながさきの空に森山を紹介したこともあり、さらに詳しいことを知りたい人のために(いるか?そんな人)その原稿をブログにアップすることにした。

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森山 栄之助
幕末外交の現場を語学力で支えたオランダ通詞

嘉永6年6月3日(1853.7.8)、浦賀沖に突如姿を現したペリー艦隊によって日本の開国が始まった。このいきさつは「泰平の眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」という狂歌とともに、脅されて不平等条約を結ばされたという認識が一般的だ。しかし海外の文献も交えて幕府の外交を追っていくと、私たちが教わった開国とはすこし違った姿が見えてくる。そしてそこからほとんどすべての条約締結にかかわった一人のオランダ通詞(通訳)の存在が浮かび上がってくる。
森山栄之助(多吉郎)。条約締結した欧米諸国に残る文書や伝記・航海記などに数多く登場する日本人名だ。オランダ人より流暢にオランダ語を話し、諸外国との条約締結も彼の通訳や翻訳力がなければ難しかったと書かれている。その生涯は幕末外交そのものでもあった。

森山栄之助は、文政3年(1820)6月1日、長崎・馬町のオランダ通詞の家に生まれた。オランダ通詞とは、長崎出島でオランダ語を通訳・翻訳する地役人で世襲制であった
当時の長崎では、オランダ通詞がオランダ語以外の外国語の必要性を痛感した始めたころでもあった。森山は10歳を過ぎると稽古通詞になり、オランダ語のほか英語の習得にも勤しんだが、師となる人材は英語を解するオランダ人しかおらず、効果的な学習にはなりえなかった。23歳の森山に浦賀詰通詞役が回ってきた。浦賀での勤務中に米船マンハッタン号が日本人漂流者を乗せて来航した。このとき対応した森山についてマンハッタン号の船長は「英語も少しできるが動作による意思伝達がとても上手だ」と語っている。
英語力のつたなさを痛感した森山にチャンスがやってきた。日本への憧れから漂流民を装って捕鯨船から降り北海道に上陸したアメリカ人、ラナルド・マクドナルドが長崎に送られてきた。奉行の尋問を通訳した森山はマクドナルドを励まし、彼が重罪にならないように踏絵のことなどを事前に説明した。マクドナルドが軟禁されると、森山をはじめ14人のオランダ通詞たちが奉行に願い出てマクドナルドから英語を学ぶ許可を得た。これは日本を知りたがっていたマクドナルドにとっても好都合で、座敷牢の格子をはさんで授業はほぼ毎日行われた。なかでも熱心で優秀だった森山のことをマクドナルドは自著の中でも特筆している。充実した勉学の日々は勾留者引取りの米艦プレブル号が来るまで続いた。長崎にはマクドナルドと同時期に米捕鯨船ラゴタ号の船員たちも勾留されていたが、彼らは脱走や暴力を繰り返していたため厳しい勾留措置がとられていた。帰国後、ラゴタ号の船員たちが日本で非人道的な扱いを受けたと言及し、これがアメリカ国内でセンセーショナルに伝えられ、後のペリー来航の引き金になっていった。
マクドナルドが去った後、森山は仲間の通詞たちと英語辞書の編纂に取り掛かった。「世界」や「自由」という言葉がなかったこの時代に、日本で初めてworldを「世界」、freedomを「自由」という言葉を作り翻訳したのは森山たちだった。嘉永5年に出島のオランダ商館長がペリーの来航を予告した「別段風説書」を幕府に提出し、幕府内では鎖国か開国か激論が交わされ、その対策に揺れ動いていた。そのような情勢の中、ペリー艦隊が来航した。

ペリー来航を知るや、幕府は英語が最も堪能な森山たちを長崎から呼び寄せるが、彼らが到着したときペリー艦隊は翌年の再来航を約束して浦賀を離れていた。そのすぐあと長崎にロシアのプチャーチン艦隊が来航した。森山たちはとんぼ返りで長崎に戻り、プチャーチンとの交渉にあたった。交渉はロシア応接掛・川路聖謨の巧みな交渉力もあってほぼ幕府の満足のいく内容で進められた。川路の通訳を務めたのは森山だった。プチャーチンの秘書ゴンチャローフは著書「日本渡航記」で森山の印象を「他の者と違って大胆であり、英語は少ししか話さないが、内容は全部理解している。彼が、日本は今後鎖国法などを変えなければならないと考えていると知って驚いた」と書いている。外国語を操り、外国人に臆することなくことに当たり、幕府要人たちの不安を取り除く心配りも忘れない闊達で人当たりのよい国際人の姿がそこにあった。森山はこの交渉で大通詞に昇格した。

 ②につづく
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by windowhead | 2014-08-23 18:27 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

J1に勝てたね!天皇杯3回戦

現地応援の人たちのTweetを頼りに一喜一憂のJ1アルビレックス新潟との対戦。
延長戦を闘ってVファーレン長崎が勝ち上がった。
放映がなかったため、試合の様子はわからないが、前半失点、後半古部選手の得点で同点となり、延長戦。延長戦前半、セットプレーから高杉選手が得点、それを守り切っての勝利らしい。両チームのサポさんのつぶやきから、長崎が最後まで走り勝っていたとか。
なんか、久しぶりに手放しでうれしい!

長崎のメンバーは
GK 大久保 DF 岡本 山口 高杉 MF 古部 前田 三原 野田 深井 黒木  FW 小松
サブ 中村(隼) 下田 石神 奥埜 フンソン 深井 神崎 東
FWの外国人2人を除いて、ほぼ3日前のアビスパ戦を闘ったメンバー。アビスパ戦終了時、DF、MF陣が立ち上がれないほど消耗していた姿を見ているので、勝利の喜びはひとしお。
移動日もいれて中2日、さらに長距離移動という過酷な状況でも、J1と真剣勝負できるという喜びや期待感がチームのモチベーションを高めていたんだろうな。
べーちゃん、すぎさまのゴールというのが個人的には別格の喜び!(こんな試合にかぎってスカパーもNHKも放映なし。くやしぃー〜〜〜)

J2 15位の長崎がJ110位の新潟に勝ったのだから一応ジャイアントキリングだな(浦和あたりに勝ったのなら本気でそういうけどね…)と、思っていたら、あらまぁJ2中位以下のチームが軒並みJ1を破っているではないですか。
新潟に勝ったら、柏と対戦だ、あのガツガツ激しい柏と対戦したいねと思っていたら、なんとまたお友達・千葉との対戦になってしまった長崎。ここを勝たないと勝ち上がったって実感がないかもしれないなあ。

J1首位の浦和がJ2 18位群馬に、2位の川崎がJ2 17位愛媛FCに、柏がJ2 6位千葉に、そして前年度天皇杯覇者マリノスもJ2 4位の北九州に負けてる。
J1上位のチームは、相手がJ2下位だからって気を抜いたね、気は抜かなくてもターンオーバーで主力温存?
そしてJ2のトップ2、湘南と松本が負けてる〜〜。ここは対戦相手の大宮や東京は主力メンバーできてるもんなあ。

マリノス、どうしたのよ〜。
前日かその前日まで、ラフィーニャが出場できないことを確認できていなかったフロントと監督のお粗末さ。そこからバタバタと起用された藤田くんが合わなかったのかな?後半最初に謎の交代。なんでかな。伊藤翔くん、どうだったのかな。スタメンから俊輔とボンバーがいない。俊輔はサブにいたがボンバーはベンチ外。セットプレーからの失点が続いていたのに栗原の統率で大丈夫なの?同点に追い上げられて、俊輔を出さないまま失点して負けている。
一つ歯車が狂うと何もかも噛み合なくなる。そんなドツボにはまりそうで怖い。
徳島戦の俊輔、フリーキックやコーナーキックが時々大きくずれていたけど、もしかして足か腰を痛めてるのではないかしら?負けるといろいろと心配になってくるなあ。


長崎のサポーターグループ・ウルトラ長崎のコールリーダーさんをはじめ有志の人たち、試合前日の夜長崎を出発して車で新潟まで駆け付けたようだ。長崎から新潟まで長距離移動して、目一杯ちから振り絞って応援してくれてありがとう!勝たせてくれて本当にありがとう!
いつもユーモアたっぷりのウルトラさんたちの熱さ。このバランス感覚、好きです。


※アルビレックスゴール裏からすぎさまのゴールを堪能できる映像。(映像をアップされたアルビサポさんには申し訳ないが、情報の乏しい長崎サポに免じて掲載ゆるしてね)
すぎさま、落ち着いているわ〜〜

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by windowhead | 2014-08-22 11:07 | Vファーレン長崎 | Comments(0)

ペリーに言葉を返した男、知ってますか

久しぶりに、幕末の長崎関係のことを

毎月、十八銀行の各店に置かれて無料配布されているペーパー「ながさきの空」。ひさしぶりに今月号の歴史コラムを担当した。もうすでに各店で配布されているだろう。

どうしても一度は書きたかった「森山栄之助(多吉郎)」
長崎のオランダ通詞が、日米和親条約を始め、幕末の日本が諸外国と結んだ条約のほとんどに関わっていたことを知っている長崎人はそれほど多くない。
当時の海外の外交官たちから「日本の外交官」として認められていた唯一の人物
ペリーに日本の現状を比喩を交えて的確な英語で表現し、日本人の文化度の高さを認識させた人物
英国大使オールコックからの信頼も厚かった人物
外国から評価され、日本では無名のままの人物
森山栄之助

残念ながら、2000文字で彼の業績と歴史のはざまに埋もれた理由を書くのは難しい。
今回は、森山栄之助の一生をさらりとなめたようなものになってしまったが、長崎の人に、郷土の偉人に取り上げられていない歴史の功労者の存在を知ってもらうきっかけになってくれればいいかな。
そして、それをとおして、幕末の外交が本当はどんなものだったか。本当にペリーに脅されて開国したのか?本当に幕府の外交は無能で時代遅れだったのか?もう一度ニュートラルな視点から幕末を見るきっかけになってもらったらいたいな。

だって私たちは、案外知ったつもりで知らないことが多いんだよ。そう思い込ませられていることが多いんだよ。そして、そのまま世間の常識になってしまっている。
未だにペリーは太平洋を横断して日本に来たと思っている人がほとんどだよね。
日米和親条約締結交渉は逐一文書の交換で行われ、その仲介が主にオランダ語だったこと、知っている人は少ないし、その条約文が日本には残っていないが、アメリカでは国立公文書館に保存されていて、見ることができることもあまり知られていない。

森山栄之助や幕末の外交に関わった日本人のことをもっと知ることで、少なくとも私たちの欧米人への劣等感がささやかながら払拭できる。

「近代日本の出発は、徳川幕府の総否定から始まった。それは今も続いている」って、大切なキーワードかな。

歴史の襞に埋もれた事象や人物を知ることは、推理小説を読むより魅力的。
これは私の趣味みたいなもの。
以前も、足立仁十郎から会津と長崎の関係(http://westcoast.exblog.jp/3684563http://westcoast.exblog.jp/3696881)を知ったし、佐古招魂社から長崎と西南戦争の関係(http://westcoast.exblog.jp/5810455)を知った。どれもそれまではだれも手をつけていなかった事柄だったが、私が「ながさきの空」に書いたのをきっかけに今は「さるくガイド」が案内するコースに取り入れているガイドさんもいるようだ。
趣味が、ちょっとだけ長崎観光の役にたったってことで、満足していいかな。

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時間ができたら、森山栄之助について、すこし詳しく書いておこうと思っている。
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by windowhead | 2014-08-17 13:23 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

残念、でも何となくよかったかなとも…。

新潟のFW川又選手の名古屋移籍が決まった。
マリノスも獲得競争に参戦していたようなので、まあ、名古屋に負けちゃった。
未だに、昨シーズンのマルキに変わるFWが出てこなくて、得点力不足のマリノス。
川又選手の得点力は、喉から手が出るくらい欲しかったんだよね。

でも、正直、取れなくてよかったかな、という感情もある。
こんなことを言うと、マリノスのコアなサポーターさんたちから、何言っている!と叱られるかもしれないけど、なんとなく川又選手の今回のやり方に受け入れ難い部分を感じるからか。

そもそも中断明けに調子が上がらす、4試合ベンチ外になっているとの報道があったあたりから、いろいろな情報がでてきた。
本来なら契約交渉段階で、それが表面化する時期じゃなかったのかもしれないが、表面化したものが、「そりゃあないだろ!」って感じのものだ。

アルビの顔的活躍のK君に対して、会社側は3年の複数年契約更新を提示。
K君は海外移籍も視野にいれている。アルビがもしACL圏内を勝ち取ったらアルビに残ってもいいが、そうでなくなったら、そのまま契約していなければ今年末には0円移籍ができるので、海外に出やすくなる。だから、契約は急ぎたくないなあ。って感じかな。
会社にしてみれば、かなりいい条件を出していたと思うし、ある意味新潟が育てた選手だからアルビへの愛があると思っていたに違いない。
契約更新してくれないということは、来シーズンはアルビを離れる可能性があるってこと。そうならば、アルビとしては新しいFWをチームにフィットさせなければいけない。大きな戦力のK君を外しても将来に向けてのチーム構築のほうを優先するって掛けに出たって感じかなあ。海外でも契約更新しない選手がゲームに出られなくなるのはよくあること。100歩譲っても、アルビや監督が責められることではないと思う。

たしかに所属チームとの契約が切れていれば、その選手を取ろうとしているチームはその分お金が掛からないので海外も行きやすいだろう。(最近で言えば本田のミラン行きも、契約が残っている間は決まらず、0円になって決まったという例もある。)でも育てたチームにしてみれば、こんなに理不尽なことはないだろうなあ。

考え方はいろいろあるだろうし、表面に見えないこともいろいろあっただろう。
でも、どちらかというと、育ててくれたチームに恩返しがしたい。違約金を残して行きたいと言う考え方の方が私としては受け入れやすい。

K君は、アルビにいてACLに出る気でいたなどとコメントしていたが、契約というのは、その言葉を担保するものだ。選手も個人事業主なら、会社同士のビジネス。俺の言葉を信じろよというのは通らないよね。
得点力があって頼れるギラギラ男くん、もう少し大人でいて欲しかったなあ。

川又選手が取れなかったマリノスの得点力は現状のママ。
翔くん、ぜひぜひひと皮むけてくれ〜〜〜〜!
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by windowhead | 2014-08-15 12:28 | 紙のフットボール | Comments(0)

再び「松田直樹を忘れない」

3年前の8月2日午前10時頃、松本山雅の練習場でマツが倒れた。
そのことを知ったのは昼頃だったと思う。ネットにアクセスしていた仕事場の女性が「松田というサッカー選手が練習中に倒れたそうですよ」と教えてくれた。松田…私の記憶の中にある松田と言う選手は松田直樹選手しかいないはずなのに、熱中症なの?とか言いながらディスプレイを覗き込んで愕然とした。そこに書かれていたのは「心臓マッサージを受け救急車で搬送された」という文字だった。
そして2日後の8月4日、マツは還らぬ人になった。
マツを失ったことの大きさを痛感したのはテレビに映し出される中村俊輔の憔悴した姿とそのすぐ後の柏戦での俊輔の鬼神のような闘いぶりにだった。
映像にはなかったが親友・佐藤由紀彦のそのときの様子は「松田直樹を忘れない〜闘争人Ⅱ永遠の章〜」(二宮寿朗著)に書かれていた。大切な人を亡くした者の悲しみを通り越した虚無感がその文章からひしひしと感じられた。

中村俊輔はその後ずっとマツの顔と3が書かれたアンダーシャツをユニフォームの下に着て闘っている。「マツさん大事なのはやっぱりハートだよ」と言ってマツを喜ばせた俊輔はマツが愛して止まなかった、そして一番の居場所と思っていたはずのマリノスを引っ張って闘っている。いまのマリノスでは一番のファイターだ。

佐藤由紀彦は私の街のクラブ「Vファーレン長崎」のキャプテンを務めている。
マツを亡くした2011年、Vファーレン長崎はJFL優勝し、J2への切符を手にした。最終戦、選手サポーターとともに喜び合う由紀彦はマリノス時代のマツのユニフォームを着ていた。
最近、長崎のゲームで由紀彦の姿を見ない。練習を見に行ったが、クロスの精度は今でのチームで一番だし、闘う気持ちも消えていない。まだまだ今のVファーレンの選手達より1枚上のプレーヤーだと思うのだが、監督の構想にそぐわないのだろうか。
少し前、Vファーレン長崎の記事を書かれる藤原さんがtwitterで「佐藤由紀彦くんは一振りの日本刀のようだ」とつぶやかれていた。なにかのインタビューをされたときに感じられた雰囲気なのだろう。由紀彦に研ぎすまされた覚悟みたいなものを感じる人は私だけではないんだなあと共感した。
今シーズンの10番のユニフォームにサインをもらうため試合後、スタジアムを離れる由紀彦に近づいてユニフォームを出し、サインをお願いした。ユニフォームとマジックを手にした由紀彦から「ありがとうございます」という言葉が発せられた。「えっ、ありがとうと言うのはわたしのほうなんだけど?」と思って顔を見たが彼はどこに書きます?という表情だった。彼の「ありがとうございます」の言葉がとても端正で心にしっかりと残っている。
いまVファーレン長崎を応援に行っているのは、まだ佐藤由紀彦がいるからだ。
佐藤由紀彦がどんなことを考え、どのような覚悟で今のチームで頑張っているのか、ただのファンでしかない私が本人から聞くことはできない。ぜひとも取材できる立場にある記者やフリーライターの人たちに「佐藤由紀彦」に迫って欲しいと思っている。

マツが亡くなった日、いつも目の前にある「松田直樹を忘れない」を再読している。
ここには生前のマツとともに佐藤由紀彦がいる。
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by windowhead | 2014-08-04 09:38 | Vファーレン長崎 | Comments(0)

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