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「五平太」からタイムスリップ

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昨日あるパーティに参加したが、そこでケータリングを担当していたお店の名前から、ひさしぶりに10年前ごろ躍起になって調べていたことを懐かしく思い出した。
そのなまえは「五平太」で石炭のこと。
炭坑があるところでは五平太伝説というのがあるらしいが、長崎の五平太は、徳川綱吉の時代に平戸領民五平太が高島で石炭を採掘、付近の塩田へ供給したことで、石炭のことを五平太と呼ぶようになったというもの。「高島炭坑史」のなかにも書かれている。

10年以上前、私が高島炭坑史を読んだわけは、山脇正勝という人物に興味を持って調べていたから。
山脇が高島炭坑に関わったのは、明治14年ごろから。岩崎弥太郎が高島炭坑を譲り受け経営に乗り出し三菱炭坑長崎事務所を設置し、、外国人と日本人1名づつが所長として送り込んだが、その日本人が山脇正勝。その前は三菱の上海支店長をしていた人物だ。のちに岩崎弥太郎が長崎造船所を政府から譲り受けた時は高島炭坑所長と三菱造船所の初代所長を兼務したなんともすごい人のなのだ。
この人は、桑名藩の家老の息子だったが、明治維新、故あって国許に帰れず、アメリカに渡り、そこで岩崎弥太郎と知り合っている。
なぜ国許に帰れなかったか。いろいろ事情があったが、一つは彼は朝敵だったということもあるだろう。幕末桑名藩の藩主は会津藩主松平容保の実弟・松平定敬で、藩はすでに新政府側についたが、定敬と彼の側近たちは徹底抗戦で、榎本武揚や土方歳三たちと一緒に箱館(函館)に渡った。山脇正勝は定敬の小姓の一人だったので、主君を追って箱館に渡り、箱館で新選組隊士となって、弁天台場に立てこもって戦っている。新選組といっても、箱館に渡ったときは京都時代の隊士たちは数少なく、その隊を「箱館新選組」という呼び方で分けているが、もちろん土方歳三以下、歴戦の猛者たちが集まった精鋭戦闘集団だったことはかわりない。その頃の山脇の偽名は「大河内太郎」。新選組隊士名簿にもその名が残っている。

もう10年以上前だが、三菱経営となった高島炭坑や長崎造船所の初代の所長が新選組隊士だった!という事実を知ったとき、初めて郷土史への興味をもったし、まだまだ研究されていない事柄がたくさんあることを知った。そして、その頃の長崎県令(知事)と長崎市長が会津藩士だったことも。

「五平太」というお店の名前からひさしぶりに幕末明治の長崎への興味を思い出した。
幕末明治を語るときの私のスタンスは、明治新政府によって無能者扱いにされた旧幕府側大名やのテクノクラート、知識人、その人たちと学びあった無名の人たちの功績をきちんと掘り起こすこと。
いま執筆参加のお誘いをいただいている共著本でも、長崎をテーマにしたいと思う。
幕末明治の長崎はおもしろい。

山脇正勝に就て10年前にこのブログに書いたり、自分のホームページ「長崎微熱」に書いた文章へのリンクを少し載せておきます。興味をお持ちの方はご覧ください。
三菱長崎造船所初代所長は新選組隊士だった!http://50s.upper.jp/coram/coram-naga3.html#naga3sono3
明治中期、長崎の近代化に貢献した三人のサムライ http://50s.upper.jp/saiken/samurai.html
「幕末の桑名」 重工業と金融業の基礎を築いた新選組隊士たちがいた。http://westcoast.exblog.jp/4998383/
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by windowhead | 2017-01-21 14:09 | 長崎なう | Comments(0)

小城市で「千葉氏」関連フォーラム

「千葉氏探訪〜〜房総を駆け抜けた武士たち」の著者鈴木佐さんが佐賀県小城市小城町にやってくるらしい。
小城市になぜ?と思ったけれど「千葉氏サミット」がらみのようだ。
小城市といえば、長崎市も「春雨祭り」などで交流がある。
幕末の長崎に遊学していた小城鍋島藩藩士柴田花守が長崎の丸山で端唄「春雨」を作詞したといわれている。その関係で4月の小城春雨祭りには毎回長崎検番の芸妓衆が参加して唄や踊りで花をそえている。
千葉氏がらみでいえば、諫早のほうが因縁がありそうだ。

その小城市で開催されるフォーラムの詳細は以下

公開フォーラム「中世の大都市・・すごいぞ小城」
日時 平成28年5月21日(土) 午後2時~5時
場所 市民交流センター ゆめぷらっと小城 2階ホール
      小城市小城町253-21 TEL 37-6601
内容 基調講演とパネルディスカッション
   中世鎌倉時代、関東千葉氏によっていかに小城の地に小京都づくりが行われたのかーその歴史的背景を学び、大陸との交易やどのように京都や千葉など列島各地とダイナミックな交流を続けたのか。
また、中世の小城が仏教をはじめとする様々な文化を醸成し「小京都の中の小京都」として発展していったかを検証。
この歴史文化遺産を活かしたこれからの小城のまちづくりを検証します。

基調講演 14:15~15:15
 野口 実氏   元京都女子大学教授

パネルディスカッション 15:30~17:00
・コーディネーター  
 村岡安廣 氏 小城商工会議所会頭、村岡総本舗代表取締役  
・パネリスト
野口 実 氏
 宮島敬一 氏 佐賀大学名誉教授
 鈴木 佐 氏 千葉氏研究家 建長寺調査員
 岩松要輔 氏 小城郷土史研究会会長
 江里口秀次氏 小城市長
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残念ながら拝聴しにいけないが、すごく面白そうだ。

○お問い合わせはフォーラム小城事務局090-9489-8124に

ずっといぜんに書いたブログ「「千葉氏探訪」の著者と会う」
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by windowhead | 2016-05-17 17:51 | 日日抄 | Comments(3)

あるかもしれない!肥前名護屋城シーン(大河「真田丸」)

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朝っぱらから大河「真田丸」関連番組 外伝「真田家の運命を変えた男たち」が放送された。石田三成役の山本耕史や加藤清正役の新井浩文たちが舞台となった土地を訪ね知られざるエピソードを紹介する番組だったが、すごくおもしろかった。
こんな番組は、アッと思うようなことを確認させてくれてうれしい。
今回もまさかと思っていたけど案外ドラマで重要な設定になりそうな予感の場所が出てきた。
「肥前名護屋城」
秀吉の朝鮮出兵の本拠地として佐賀県唐津市の玄界灘に突き出した半島の突端に作られたお城。いや、お城というより軍事都市。大阪城規模の城をほぼ1年で(と言われているが調べてみるとその前から準備されていたようだ)作ったと言われている。この城を中心とした半径3キロほどの場所に諸国大名たちの陣屋や商人たちの店や娯楽の場などがひしめき、ほんの数年間だが豪華絢爛な桃山文化が花開いた場所でもある。
真田氏もこの土地に複数の陣屋を構えてる。ただ、真田氏など関東勢は戦場に渡ることなくあと詰めだったので、ドラマでもあまり重要視されないだろうと踏んでいた。しかし、脚本が三谷幸喜だ!グランドホテル型の群集劇が大好きな三谷幸喜なら戦場シーンより名護屋城での人間模様を選びそうだ。そうなると個人的にはうれしい。

実は既刊の書籍「真田丸を歩く」で私が執筆を担当した場所が「肥前名護屋城跡」だったから。
真田一族に関連した歴史紀行本になるとの連絡がきた時、九州はあまり関係ないからこの企画はお休みだなと思っていたら「九州在住だから肥前名護屋城に執筆お願いしますよ」とのお達しをいただき、重い腰をあげて取材したのが昨年の夏だったかな。戦国時代は守備範囲でないし、真田は考えてもいなかったのでなかなか手こずった。いつも執筆依頼がくるときは関係人物に思い入れをして史料探しなどするが、今回はそんな人物もおらず向かったが、ある意味圧倒される場所だった。本当に「強者どもの夢の跡」とはこの地をいうんだなあという風景なのだ。そこに立って豪華絢爛な花見や茶会や能楽に耽る武将たちの姿を思い浮かべると跡地の荒涼感がさらに増してくる。
交通の便がいいとは言えない場所だが、歴史旅が好きな方にはぜひ足を踏み入れてほしい場所だ。
歴史研究愛好家たちが集まって執筆担当した「真田丸を歩く」(星亮一 編/歴史塾 著 現代書館発行 1800円+税)発行されて半年になるがまだ書店に並んでいる。
重版出来は無理だがなにとぞ前回の本のように完売しますように。

今話をもらっている本は幕末物。サッカー好きの私はやっぱり幕末の群像物が向いている気がする。
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by windowhead | 2016-05-06 14:01 | 至福の観・聞・読 | Comments(0)

執筆本「真田丸を歩く」皆さんよろしく

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この夏に書いた原稿が掲載された本が店頭に並んだ。
「真田丸を歩く」 歴史塾著 星亮一編 現代出版  定価1800円+税

来春からのNHK大河ドラマは「真田丸」。
真田信繁(幸村)が主人公で真田一族の物語のようだ。
真田一族に関係する場所を探訪する歴史ガイド本になっている。
とは言っても、歴史研究者や歴史探訪愛好者が書く本だから、「るるぶ」みたいにカラフルだったり、美味しそうだったりする本ではない。文字ばっかりの地味な本。でも歴史好きには間違いなく面白いと思う。
残念ながら九州にはあまり関係ない大河になりそうで、今回の執筆は無さそうだと高をくくっていたら、ありました九州にも真田の足跡が。
ということで、秀吉の朝鮮出兵と肥前名護屋城跡について取材した。
この場所が大河ドラマでも出てきますように…。
著者の立場では、出版されたときはもうその原稿は過去のもので、実際に本になったものをじっくりと愛おしんで読むという機会は少ない。まずは、自分が書いた部分より、他の仲間の方々が書いたものに興味がいく。自分が見つけられなかった新しい発見や切り口があると、やられたなと思うし、ワクワクする。
一冊の本の一部を書くだけだが、知識が少ないから資料やかかった時間はそれなりに大きかった。
得意分野外の時代だったけど、
「真田一族、おもしろいわ〜〜」

大河ドラマ「真田丸」の脚本は三谷幸喜氏。絶対に面白いものになるはず。
真田丸に関しては、講談「真田十勇士」を聞くくらいワクワクする「お話」に仕立ててほしい。
史実にこだわりすぎて重箱の隅をつつくような批判が出てくるはずだが、そんなものぶっ飛ばして猿飛佐助や霧隠才蔵の忍術がでてくるくらいまでぶっ飛んでほしいなあ。

来年の大河ドラマは見逃したくないほど楽しみにしているが、ちょっと困っている。
日曜日の午後8時は、J2の試合とかぶるのだ。
お昼の試合ならなんとかなるが、16時以降に開始される試合だと…無理。
とりあえずリアルタイムはサッカーが優先の日曜午後8時になりそうだけど。
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by windowhead | 2015-12-16 09:32 | 至福の観・聞・読 | Comments(0)

またひとり…

作家の杉本章子さんが亡くなった。
またひとり、幕末、文明開化の情緒を物語として伝えてくれた作家さんが逝ってしまった。
ついこの前、11月に宇江佐真理さんが亡くなって、その喪失感に陥ったばかりだった。
杉本章子さんまでも…。まだ62歳だった。
彼女の代表作「東京新大橋雨中図」は私の中では忘れられない本のひとつ。
時代の転換期に古臭いものとして切り捨てられるものたちのあがきとそれらが持つ消えゆく故の美しさのようなものを浮かび上がらせてくれた一冊だ。
最後の浮世絵師・小林清親の絵の存在を教えてくれた本でもある。
過去にもこのブログで書いた記憶があったので探してみた。
「東京新大橋雨中図」文明開化に江戸を描いた元幕臣の半生
「情緒」が書ける作家さんが少なくなっていく。

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杉本さんの訃報が書かれた新聞の隣ページに気持ちが高まる記事があった。
松平容保公の肖像写真が青森で発見されたという。
断髪で紋付袴姿の容保公の写真が添えられていた。
戊辰戦争で敗れ、新政府の憎悪を一身に背負う形となった会津藩の藩主。降伏後、領地は没収となり容保公は東京で幽閉されていたが、明治4年、斗南藩あづかりとなって青森に滞在した。その頃旧藩士に渡した写真ではないかとのこと。青森在住の旧会津藩士子孫の方宅から見つかったそうだ。
歴史的な史料の発見にしては記事が淡々としている。でもそれが旧幕派の姿には似つかわしく、私のように旧幕派の人々の跡を追っているものにはありがたくもある。
記事を切り取って静かに眺める。
幕末・文明開化の人々に想いを馳せる1日だった。
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by windowhead | 2015-12-08 07:28 | 長崎と幕末維新 | Comments(0)

チョークが…

Jリーグでもバニシング・スプレーが使われたとかなんとか…そんな諸々の情報を暇に任せてチェックしていたら、あら〜困るかもって情報がでてきました。
「チョーク、電子化に泣く…廃業で製造機は韓国へ」

ホワイトボートができて、電子黒板だってできて久しいのに未だに学校は黒板チョークが主流だというのが不思議なくらいだが、そろそろチョークにも引退の時期がせまっているようです。

で、なぜむか〜しに学校を卒業した私が困るかもなのかというと、歴史ファン兼史跡調査愛好者として大切なツールのひとつだから。
史跡調査、特に崩れた墓石や石碑などを探す時にチョークは大切な道具。
苔むしたりすり減って読みにくくなった石碑などの文字を読む時、どうするか。
苔や汚れをとったあと
懐中電灯の光を角度をつけてあてて凹凸を浮かび上がらせて読む(書き写す)
それでも読めないほどすりへっているとき、チョークをつかっています。(ただし、近くに水があることが条件ですが)石碑の読みたい文字の部分をチョークで軽くこすると凸部分が白く凹部分が石の色になってすり減った文字もくっきり出てきます。
読んだあとは、水で流して持ってきた布で拭きとります。水が少ないときはチョークが残りますが、雨が降ると流れます。
墨汁を使って拓本を取るという人もいますが、私はチョークを愛用しています。
やわらかくて上質のチョークじゃないと崩れかけてもろくなった石を傷つけると思うので、安売りチョークは使えないのです。

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わたしにとってチョークが活躍してくれた大切な調査があります。
長崎市西小島にある「梅ヶ崎・佐古招魂社」の墓碑銘調査。
明治8年の台湾出兵と明治10年の西南戦争で戦病死した政府軍兵士や関係者の御霊が祀られているところだ。戦前に移設されたり、敷地が削られたりで残っている墓石もずいぶん朽ちています。
2004年頃から時間がある日曜日に出かけて、調べたかった警視局関係者の墓石調査をしていました。お墓ということから、敷地内に水道もあったのでチョークがかつやくしました。
明治100年記念で郷友会が発行した名簿と照らし合わせながら簡単なデータベースを作ってホームページにアップしています。
ここの調査はまだ終わっていません。名前だけでなく出身地やいつどこで戦ったのかなど刻まれている墓石がまだ残っているので、まだまだチョークの出番があるのです。
バニシングスプレーのようにシュッと吹き付けてそのあと消えるものが出てくると水がないところでも、寒い日でも史跡調査愛好者には画期的な道具になるんですがね。
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by windowhead | 2015-03-23 14:59 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

栄之助の去り状

古文書、相変わらず苦手。何度もチャレンジするが、入り口にとどまったまま。
10年ほど前、どうしても知りたいことがあり、初めてチャレンジした。その時の先生・現在郷土史研究家の本馬貞夫先生が最初にご用意されたテキスト文はなんと「去り状」だった。
去り状とは離縁状のこと。俗に「三くだり半」と呼ばれている夫婦の縁切りをしたためた書き物で、その文章の定型がほぼ3行半で書かれていたことから「三くだり半」と呼ばれている。
離縁の理由は書かず、離縁しますので、今後は誰と縁を結ぼうが当方差し支えありません。というような内容だ。江戸時代、文字が書けない人の去り状には、鎌とお椀の絵が書かれているものが残っていたり(「かまわん」=(後の縁は)かまわないの意)、鎌倉辺りでは文字が書けない人は三本半の縦線を引いて印を押せばよいということもあったらしい。

話をテキストの去り状にもどそう。
当時習ったテキストとノートを掘り起こすと、この去り状は以下のようなものだった。

去状之事
一其許致離縁候処相違
無之候、依而此後何方江被致
縁付候共差構無之候
仍而去状如件
天保十三年丑十一月
森山栄之助 (花押)
おゆふ殿江

(去り状、あなたを離縁することに相違ありません、よって今後、だれに縁付いても、当方構いません)


花押で確認できたが、この去り状の発行者は「幕末の外交官」とも言われた長崎出身の通詞・森山栄之助その人だった。

天保13年丑11月といえば、森山栄之助が21、2歳のころ。ペリー来航の10年前になる。
栄之助は父で大通詞の森山源左衛門に付いて稽古通詞として出島にでていたころではないのかな。
去り状の相手の「おゆふ」という女性がどのような人だったのか、去り状が書かれた理由はなんだったのか、全然わからない。ただ、森山栄之助の長男幸之助の年齢を逆算して行くとその年に生まれているようだ。

この去り状は、森山の生地である馬町からは隣町に近い長崎桶屋町の乙名を代々つとめた藤家に残されていた古文書の中にあったようだ。
おゆふさんは、桶屋町の人だったのだろうか。
まだ少年時代の栄之助が父親に付いて出島に出勤する途中に出会ったのではないだろうか…などと想像してみたり。
離縁後のおゆふさんのことも気になるよね。

史料がないとそこから想像で物語を作ることができる。司馬遼太郎氏や吉村昭氏たち歴史小説家はそんな歴史の襞の内側に隠れていた人を史料と史料を寄り合わせ、想像を紡ぎ合わせて物語に仕立てて行くのだろう。

b0009103_13194523.jpg 昨年撮影させてもらった森山栄之助の去り状(故意に粗めの画像にしています)










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by windowhead | 2014-09-10 13:23 | 長崎と幕末維新 | Comments(4)

幕末の長崎人・森山栄之助 ②

 ロシア艦隊が長崎を離れて10日もたたない安政元年1月16日、再びペリー艦隊が姿をみせた。森山は休む暇もなく江戸に向かった。
煮え切らない幕府の態度に苛つくペリーに「わが国は今、暗闇から太陽の輝く場所へ出てきたばかりです。もう少し時間をいただきたい」と応じた森山の高度な表現力は彼らを驚かせた。首席通訳官ウイリアムズは「森山は他の通訳がいらないほど英語が堪能だ。彼はプレブル号船長たちの安否を聞き、マクドナルドは元気だろうかと気遣かった。彼の教養の深さと育ちの良さは我々に好印象を与えた」と書いている。
横浜村での日米和親条約の交渉が始まった。応接掛首席全権は林大学頭で、主席通訳に森山がついた。互いの挨拶のあと、ペリー側から今後の交渉は書面で確認したいと提案があり、漢文とオランダ語の条約草案が提出された。オランダ語は森山らが日本語に訳し、応接掛は漢文と付き合わせて内容を確認する。日本側も同じように漢文とオランダ語に訳したものをアメリカ側に渡すというやり取りを行っている。交戦を臭わすようなペリーの言動に対しても林大学頭は相手の誤りを指摘しながら粘り強く妥協点を求めていった。細則など実務的な交渉は、場所を下田に移して続いた。横浜と下田での交渉の間、森山らは通訳、条約文の翻訳、アメリカ側訳文との付き合わせのほか、米艦に出向いて細々したことの打ち合わせまでこなしていた。アメリカ公文書館には、日本語版、英文版、漢文版、オランダ語版の日米和親条約が残所蔵されているが、オランダ語版の末尾には筆記体で書かれた森山の署名が残っている。

日米和親条約の締結は、アジアに進出していた国々を刺激した。イギリス、オランダとの条約交渉が始まった。さらにロシアのプチャーチンが下田に到着し、日米和親条約並みの条約締結を迫った。幕府は川路聖謨たちを派遣し交渉に当たった。この通訳に任命される直前、森山は普請役として幕臣に取り立てられた。34歳だった。
プチャーチンとの交渉の最中、安政大地震による津波が下田を襲い、ロシア艦ディアナ号が沈没してしまった。幕府はプチャーチン一行に戸田村で帰国用の洋式帆船建造を許可し、森山は世話役として戸田に残った。幕府には洋式船建造という目論見があり、技術移転のためにロシア人と意思疎通できる者を常駐させておきたかったのだろう。

安政3年7月、ハリスがアメリカ日本総領事として下田に入港した。
領事常駐は日本には寝耳に水だった。日米和親条約の条文にどちらとも読み取れるあいまいな部分があり、そこを突かれたかたちになった。主席通訳だった森山は大きな責任を感じだことだろう。幕府は、ハリスと通訳ヒュースケンの世話を森山に命じた。ハリスによるとそのころ森山は「栄之助」から「多吉郎」に改名したようだ。ハリスと結んだ「下田協約」「通商条約」のすべての交渉に森山は通訳として係った。さらに、全権の井上信濃守たちが寝込んでしまいハリスとの交渉を森山一人に託すという事態まで起こっている。交渉決裂なら戦争も辞さないというハリスの脅しに「いわれのない戦争をできるはずがない」と応戦したり、泣き落としに出たりとなかなかしたたかな森山の交渉であったようだ。条約締結にはもう1つの難関があった。孝明天皇が大の攘夷論者であったため、国内に条約反対の世論が巻き起こっていた。大老になった井伊直弼は保守的な考えだったが天皇の意向によって幕政が動かされることに危機感を持ち、条約締結を容認、安政5年6月、日米修好通商条約が調印された。

幕府はその後、オランダ、ロシア、フランスとの修好通商条約に調印。
中国を半占領的に開国させたイギリスとも友好的に日英修好通商条約を結んだ。このとき将軍に献上された「エンペラー号」は後に「蟠竜丸」と改名され箱舘戦争で活躍した。森山はこれらすべての条約調印に係るという多忙さだった。このころの森山の印象を英国エリギン卿秘書オリファントは「淑女のように控えめだが、その裏に限りなく老練で機敏な常識を秘め、交渉では終始重要な役割を果たしていた。まるでタレイラン(フランスの有名な外交官)のような外交官だった」と記している。条約締結にあたった外国人の認識では森山は単なる通訳ではなく外交官の役割を果たしていたということだろう。

攘夷によるテロはますます激しくなり、ヒュースケンの暗殺やイギリス公使館襲撃など、在日外国人にまで及んでいった。攘夷運動の激しさや経済問題のため各国と結んだ条約の期限内履行が難しくなり、文久元年12月、幕府は各国に条約履行延期を求める遣欧使節団を派遣することになった。
使節団の出発のすぐあと、森山の海外渡航が実現する。
イギリス公使オールコックが使節団のバックアップのため帰国することになり、その随行に森山を指名したのだ。突然の海外渡航、それも従者が付かないプライベート旅行だった。
文久2年2月22日、オールコックと森山、外国奉行調役・淵辺徳蔵の3人はオランダ軍艦に便乗して横浜を出港した。この渡航を森山がどれほど待ち望んでいたか、オールコックの著書「大君の江戸」の中にその姿を見ることができる。途中何度も船を乗り継ぎ、3か月後ロンドンに到着するまで、多くの船客たちと交流し、船上での舞踏会や音楽会を楽しんだり、オールコックの知人の家に招かれたり、ときには森山と淵辺の二人だけでレストランでの食事をとったりと、初体験に臆することなく積極的に楽しんでいる二人との旅はオールコックにとっても満足のいくものだったようだ。「彼らはその控えめで穏やかな物腰でいたるところで友人を作った。森山は流暢なオランダ語でオランダ人とすぐに打ち解けていたし、英国人とも十分に情報交換できるだけの英語力を発揮していた。2人の同行を後悔するようなことは一度もなかった」と書いている。この時、淵辺はまったく外国語が話せなかったが、彼の「欧州日記」には各地で出会った人のことやオールコックからの情報が数多く盛り込まれている。おそらく森山が一生懸命通訳して淵辺との情報共有を心掛けたのだろう。

ロンドンに着いた彼らは先発の使節団と合流して、早速幕府から託された開港延期の交渉に挑んだ。それまでの条約はすべて日本の地で行われたが、このロンドンでの交渉は日本人が本国を離れ初めて海外で挑んだ外交交渉だった。開港延期も「ロンドン覚書」という代償付きで英国側の承認を得、使節団はフランス、オランダ、ドイツ、ロシアと回って「ロンドン覚書」に沿った開港延期の承認を得た。後年福地源一郎が自伝でこの交渉で屈辱的な税率を決めたと書いたため、ロンドン覚書は日本に大きな不利益をもたらしたというのが通説になっているが、実際の覚書には具体的な税率はどこにも書かれていない。一律5パーセントの屈辱的な関税率が決まったのは、その後長州が引き起こした馬関戦争での賠償金と引き換えに決まったというのが真実なのだ。

森山たちが欧州を回っていた約1年の間に国内情勢は大きく変化していた。東禅寺事件、生麦事件など外交問題に発展する事件が起こり、攘夷の勢いは幕政を揺るがすまでになっていた。帰国した使節団は、その成果を賞賛されることもなく、その経験を伝達する場もなく表舞台から姿を消さざるを得ない状態だった。森山が再び外交の表舞台に登場するのは、慶応2年ベルギーやイタリアとの条約締結の場で、イタリア使節アルミニヨンは「森山は海外で有名な人物で、彼が出席するということはその会議の重要性を示している」と書いている。

慶応3年、森山は外国奉行組頭として兵庫で居留地造成など開港準備にあたっていた。
10月14日の大政奉還で徳川幕府は消滅したが、開港準備は進められ12月7日予定通り兵庫開港式を迎えた。その2日後王政復古の大号令が発布され、戊辰戦争へと突入していく。その混乱の中で、森山は大阪のイギリス領事館を訪れ、通訳官アーネスト・サトウに、将軍が冠位を返上し、大阪に移ったことを伝えている。将軍慶喜が密かに江戸に逃れ、大阪は大混乱に陥った。兵庫奉行柴田日向守と森山は大阪に集まっていた諸外国の交渉団を兵庫居留地に受け入れた。森山たちは居留地運営をその使節団に任せると、英国船オーサカ号を借入れ、兵庫奉行所の役人や最後まで大阪城に残っていた人々を乗せて江戸に向かった。

政権交代があっても国家にかかわる外交は中断できないため通詞や外国方はそのまま外交事務の処理にあたっていった。そのため、明治新政府にそのまま登用される人たちも多くいたが、その中に「森山多吉郎」の名前はなかった。
通訳をしながら横浜で暮らし、明治4年3月15日、51歳でこの世を去った。
幕末日本の外交の中心にいながら、黒子に徹した半生だった。しかし、森山はそれを悔いてはいなかっただろう。日本の国際化に少しは貢献できたという自負はあったに違いない。ただ、「もういい」という気持ちだったろう。「他人の言葉で外国人と付き合うのはもういい。これからは、森山栄之助として自分の言葉で外国人と付き合いたい」それが、彼の本心ではなかっただろうか。短い間だが外国人で賑わう横浜で彼本来の姿を生きたのだと思いたい。

明治以降の歴史認識は徳川幕府の否定から始まっている。
幕府が諸外国と結んだ条約も治外法権や貿易の不均等など欠点ばかりが指摘されているが、アジア諸国のように植民地的な支配を受けることなく一独立国として平和的な開国を勝ち取ったという側面を再認識してもいいのではないだろうか。それによって、歴史の襞の中に消されていった開明的な幕臣や優秀な外交官の存在が浮き上がってくるだろう。彼らの活躍を知ることで、日本人に刷り込まれた欧米コンプレックスが少しだけ変わるかもしれない。
そしてもう1つ。幕末維新のヒーローたちに国際的な視点を与えた長崎に、郷土が生んだ国際人「森山栄之助(多吉郎)」のことをもっと知ってもらいたい。自己のルーツとなる故郷で忘れられた存在になっていることが森山栄之助にとって一番の悲劇ではないだろうか。
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by windowhead | 2014-08-26 01:32 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

幕末の長崎人・森山栄之助 ①

もう2年前になるだろうか、幕末関係の書籍の出版企画があり、原稿依頼が来たので、ぜひとも書きたかった森山栄之助のことを書こうときめたが、企画の人選に森山は合わないということで、他の人物を書いた。そのとき、すでに森山についてのことをまとめていたが、その後手をつけてないままだった。
ながさきの空に森山を紹介したこともあり、さらに詳しいことを知りたい人のために(いるか?そんな人)その原稿をブログにアップすることにした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
森山 栄之助
幕末外交の現場を語学力で支えたオランダ通詞

嘉永6年6月3日(1853.7.8)、浦賀沖に突如姿を現したペリー艦隊によって日本の開国が始まった。このいきさつは「泰平の眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」という狂歌とともに、脅されて不平等条約を結ばされたという認識が一般的だ。しかし海外の文献も交えて幕府の外交を追っていくと、私たちが教わった開国とはすこし違った姿が見えてくる。そしてそこからほとんどすべての条約締結にかかわった一人のオランダ通詞(通訳)の存在が浮かび上がってくる。
森山栄之助(多吉郎)。条約締結した欧米諸国に残る文書や伝記・航海記などに数多く登場する日本人名だ。オランダ人より流暢にオランダ語を話し、諸外国との条約締結も彼の通訳や翻訳力がなければ難しかったと書かれている。その生涯は幕末外交そのものでもあった。

森山栄之助は、文政3年(1820)6月1日、長崎・馬町のオランダ通詞の家に生まれた。オランダ通詞とは、長崎出島でオランダ語を通訳・翻訳する地役人で世襲制であった
当時の長崎では、オランダ通詞がオランダ語以外の外国語の必要性を痛感した始めたころでもあった。森山は10歳を過ぎると稽古通詞になり、オランダ語のほか英語の習得にも勤しんだが、師となる人材は英語を解するオランダ人しかおらず、効果的な学習にはなりえなかった。23歳の森山に浦賀詰通詞役が回ってきた。浦賀での勤務中に米船マンハッタン号が日本人漂流者を乗せて来航した。このとき対応した森山についてマンハッタン号の船長は「英語も少しできるが動作による意思伝達がとても上手だ」と語っている。
英語力のつたなさを痛感した森山にチャンスがやってきた。日本への憧れから漂流民を装って捕鯨船から降り北海道に上陸したアメリカ人、ラナルド・マクドナルドが長崎に送られてきた。奉行の尋問を通訳した森山はマクドナルドを励まし、彼が重罪にならないように踏絵のことなどを事前に説明した。マクドナルドが軟禁されると、森山をはじめ14人のオランダ通詞たちが奉行に願い出てマクドナルドから英語を学ぶ許可を得た。これは日本を知りたがっていたマクドナルドにとっても好都合で、座敷牢の格子をはさんで授業はほぼ毎日行われた。なかでも熱心で優秀だった森山のことをマクドナルドは自著の中でも特筆している。充実した勉学の日々は勾留者引取りの米艦プレブル号が来るまで続いた。長崎にはマクドナルドと同時期に米捕鯨船ラゴタ号の船員たちも勾留されていたが、彼らは脱走や暴力を繰り返していたため厳しい勾留措置がとられていた。帰国後、ラゴタ号の船員たちが日本で非人道的な扱いを受けたと言及し、これがアメリカ国内でセンセーショナルに伝えられ、後のペリー来航の引き金になっていった。
マクドナルドが去った後、森山は仲間の通詞たちと英語辞書の編纂に取り掛かった。「世界」や「自由」という言葉がなかったこの時代に、日本で初めてworldを「世界」、freedomを「自由」という言葉を作り翻訳したのは森山たちだった。嘉永5年に出島のオランダ商館長がペリーの来航を予告した「別段風説書」を幕府に提出し、幕府内では鎖国か開国か激論が交わされ、その対策に揺れ動いていた。そのような情勢の中、ペリー艦隊が来航した。

ペリー来航を知るや、幕府は英語が最も堪能な森山たちを長崎から呼び寄せるが、彼らが到着したときペリー艦隊は翌年の再来航を約束して浦賀を離れていた。そのすぐあと長崎にロシアのプチャーチン艦隊が来航した。森山たちはとんぼ返りで長崎に戻り、プチャーチンとの交渉にあたった。交渉はロシア応接掛・川路聖謨の巧みな交渉力もあってほぼ幕府の満足のいく内容で進められた。川路の通訳を務めたのは森山だった。プチャーチンの秘書ゴンチャローフは著書「日本渡航記」で森山の印象を「他の者と違って大胆であり、英語は少ししか話さないが、内容は全部理解している。彼が、日本は今後鎖国法などを変えなければならないと考えていると知って驚いた」と書いている。外国語を操り、外国人に臆することなくことに当たり、幕府要人たちの不安を取り除く心配りも忘れない闊達で人当たりのよい国際人の姿がそこにあった。森山はこの交渉で大通詞に昇格した。

 ②につづく
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by windowhead | 2014-08-23 18:27 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

ペリーに言葉を返した男、知ってますか

久しぶりに、幕末の長崎関係のことを

毎月、十八銀行の各店に置かれて無料配布されているペーパー「ながさきの空」。ひさしぶりに今月号の歴史コラムを担当した。もうすでに各店で配布されているだろう。

どうしても一度は書きたかった「森山栄之助(多吉郎)」
長崎のオランダ通詞が、日米和親条約を始め、幕末の日本が諸外国と結んだ条約のほとんどに関わっていたことを知っている長崎人はそれほど多くない。
当時の海外の外交官たちから「日本の外交官」として認められていた唯一の人物
ペリーに日本の現状を比喩を交えて的確な英語で表現し、日本人の文化度の高さを認識させた人物
英国大使オールコックからの信頼も厚かった人物
外国から評価され、日本では無名のままの人物
森山栄之助

残念ながら、2000文字で彼の業績と歴史のはざまに埋もれた理由を書くのは難しい。
今回は、森山栄之助の一生をさらりとなめたようなものになってしまったが、長崎の人に、郷土の偉人に取り上げられていない歴史の功労者の存在を知ってもらうきっかけになってくれればいいかな。
そして、それをとおして、幕末の外交が本当はどんなものだったか。本当にペリーに脅されて開国したのか?本当に幕府の外交は無能で時代遅れだったのか?もう一度ニュートラルな視点から幕末を見るきっかけになってもらったらいたいな。

だって私たちは、案外知ったつもりで知らないことが多いんだよ。そう思い込ませられていることが多いんだよ。そして、そのまま世間の常識になってしまっている。
未だにペリーは太平洋を横断して日本に来たと思っている人がほとんどだよね。
日米和親条約締結交渉は逐一文書の交換で行われ、その仲介が主にオランダ語だったこと、知っている人は少ないし、その条約文が日本には残っていないが、アメリカでは国立公文書館に保存されていて、見ることができることもあまり知られていない。

森山栄之助や幕末の外交に関わった日本人のことをもっと知ることで、少なくとも私たちの欧米人への劣等感がささやかながら払拭できる。

「近代日本の出発は、徳川幕府の総否定から始まった。それは今も続いている」って、大切なキーワードかな。

歴史の襞に埋もれた事象や人物を知ることは、推理小説を読むより魅力的。
これは私の趣味みたいなもの。
以前も、足立仁十郎から会津と長崎の関係(http://westcoast.exblog.jp/3684563http://westcoast.exblog.jp/3696881)を知ったし、佐古招魂社から長崎と西南戦争の関係(http://westcoast.exblog.jp/5810455)を知った。どれもそれまではだれも手をつけていなかった事柄だったが、私が「ながさきの空」に書いたのをきっかけに今は「さるくガイド」が案内するコースに取り入れているガイドさんもいるようだ。
趣味が、ちょっとだけ長崎観光の役にたったってことで、満足していいかな。

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時間ができたら、森山栄之助について、すこし詳しく書いておこうと思っている。
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by windowhead | 2014-08-17 13:23 | 長崎と幕末維新 | Comments(2)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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