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坂本龍馬と「くんち」

長崎諏訪神社の秋の大祭「くんち」が始まった。
正直、このお祭りにそれほどの思いいれもないので、人ごみを避けて引きこもる。

慶応3年のこの時期(旧暦9月9日~11日)、やはりこの祭りの喧騒のなかで浮かぬ顔をしていた男がいた。彼の名前は「坂本龍馬」。

この年旧暦7月7日、長崎の花街丸山の路上で、英国軍艦イカルス号の水夫2人が何者かに殺害された。目撃者の証言で、海援隊士が犯人ではないか疑われた。事件の顛末を聞き知った英国公使パークスは激怒して、事件解決を幕府に迫った。イカルス号事件といわれる出来事だ。
長崎奉行を攻め立てたパークスはその足で、7月22日大阪に入り、将軍慶喜と会見して、長崎奉行の罷免と長崎外国人居留地警護のため500人の兵の派遣を約束させている。それが済むと今度は土佐に談判に行く。
佐々木三四郎と龍馬も土佐に向かい、藩主に説明し、パークスとの会見の準備工作にあたる。それが終わると、佐々木三四郎や龍馬は、8月12日に土佐を離れ15日に長崎に入港。海援隊士の取調べにあたる。
9月7日、やっと海援隊士の嫌疑が晴れることになる。龍馬もさぞかしホッとしただろう。

ところがところが、またまた事件勃発!

慶応3年9月11日(旧暦)の佐々木高行日記によれば
「早天より昨日評議せる書き取り致し候ところ、商会より山崎直之進あわただしく来たり曰く、今朝諏訪神祭りにつき、下代島村雄二郎、田所安吾両人、波止場へ神輿を見物に罷りこし候途中、外国人両人とりあわし、ついに雄二郎より外国人へ疵をつけ候。右外国人は米一人ジョージアンデルソン英一人エドワードワルレン趣き相わかり候。それにつき、商会にて評議いたし候ところ、隠密にいたし早々、雄二郎、安吾は帰国したき様致す為、この段お届け仕しことなり。よってその場に居合わせたる者、種々の議論起こる。…

くんちのお神輿を見るために大波止に出向いた土佐商会の島村雄二郎、田所安吾の2人が外国人殺傷事件を起こした。商会としては、このことは内密にして、2人を船で土佐に帰すつもりだったが、議論の場に居合わせた坂本龍馬は、やっとイカルス号事件が解決したばかり。今度の事件を隠すと、後でばれたとき、イカルス号事件を蒸し返すことになる。奉行所に届けるべき」と主張している。岩崎弥太郎など多くの反対があったが、結局事件を奉行所と英国領事館に届け出ている。

「土佐勤皇史」によれば、障害事件の第一報を聞いた時の龍馬は、柱によりかかりため息混じりに「またやったか」とつぶやいたそうだ。
慶応3年の「くんち」最中のできごとだ。

最近、龍馬フリークのM氏から、慶応3年「くんち」の奉納踊りを担当した町名を教えていただいた。
この年は、江戸町、本大工町、今博多町、今魚町、本紺屋町、本籠町、材木町、古町、上筑後町、後興善町、本興善町が、踊り町に予定されていたそうだが、全部の町が参加できなかったらしい。

この年の長崎は、浦上のキリスト教信徒を投獄する浦上四番崩れが奉行所によって行われたり、地役人・町年寄り以下の制度改革がおこなわれ、治安のための遊撃隊が編成されたり、旧暦9月5日には、長崎警備のため、幕府派遣の兵290人が長崎に入り駐屯するなど、騒々しい事態がつづき、お祭り気分になれない町もでてきたのかもしれない。くんちの花形、龍踊りもでなかったようだ。


くんちも終わった旧暦9月18日、龍馬は、プロシア商館からライフル銃1300挺を購入し、土佐藩へ輸送するため震天丸で長崎を離れた。この日が、龍馬と長崎のお別れの日になってしまうとは、誰も思いもしなかっただろう。
by windowhead | 2009-10-08 03:07

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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