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幕末の長崎人・森山栄之助 ②

 ロシア艦隊が長崎を離れて10日もたたない安政元年1月16日、再びペリー艦隊が姿をみせた。森山は休む暇もなく江戸に向かった。
煮え切らない幕府の態度に苛つくペリーに「わが国は今、暗闇から太陽の輝く場所へ出てきたばかりです。もう少し時間をいただきたい」と応じた森山の高度な表現力は彼らを驚かせた。首席通訳官ウイリアムズは「森山は他の通訳がいらないほど英語が堪能だ。彼はプレブル号船長たちの安否を聞き、マクドナルドは元気だろうかと気遣かった。彼の教養の深さと育ちの良さは我々に好印象を与えた」と書いている。
横浜村での日米和親条約の交渉が始まった。応接掛首席全権は林大学頭で、主席通訳に森山がついた。互いの挨拶のあと、ペリー側から今後の交渉は書面で確認したいと提案があり、漢文とオランダ語の条約草案が提出された。オランダ語は森山らが日本語に訳し、応接掛は漢文と付き合わせて内容を確認する。日本側も同じように漢文とオランダ語に訳したものをアメリカ側に渡すというやり取りを行っている。交戦を臭わすようなペリーの言動に対しても林大学頭は相手の誤りを指摘しながら粘り強く妥協点を求めていった。細則など実務的な交渉は、場所を下田に移して続いた。横浜と下田での交渉の間、森山らは通訳、条約文の翻訳、アメリカ側訳文との付き合わせのほか、米艦に出向いて細々したことの打ち合わせまでこなしていた。アメリカ公文書館には、日本語版、英文版、漢文版、オランダ語版の日米和親条約が残所蔵されているが、オランダ語版の末尾には筆記体で書かれた森山の署名が残っている。

日米和親条約の締結は、アジアに進出していた国々を刺激した。イギリス、オランダとの条約交渉が始まった。さらにロシアのプチャーチンが下田に到着し、日米和親条約並みの条約締結を迫った。幕府は川路聖謨たちを派遣し交渉に当たった。この通訳に任命される直前、森山は普請役として幕臣に取り立てられた。34歳だった。
プチャーチンとの交渉の最中、安政大地震による津波が下田を襲い、ロシア艦ディアナ号が沈没してしまった。幕府はプチャーチン一行に戸田村で帰国用の洋式帆船建造を許可し、森山は世話役として戸田に残った。幕府には洋式船建造という目論見があり、技術移転のためにロシア人と意思疎通できる者を常駐させておきたかったのだろう。

安政3年7月、ハリスがアメリカ日本総領事として下田に入港した。
領事常駐は日本には寝耳に水だった。日米和親条約の条文にどちらとも読み取れるあいまいな部分があり、そこを突かれたかたちになった。主席通訳だった森山は大きな責任を感じだことだろう。幕府は、ハリスと通訳ヒュースケンの世話を森山に命じた。ハリスによるとそのころ森山は「栄之助」から「多吉郎」に改名したようだ。ハリスと結んだ「下田協約」「通商条約」のすべての交渉に森山は通訳として係った。さらに、全権の井上信濃守たちが寝込んでしまいハリスとの交渉を森山一人に託すという事態まで起こっている。交渉決裂なら戦争も辞さないというハリスの脅しに「いわれのない戦争をできるはずがない」と応戦したり、泣き落としに出たりとなかなかしたたかな森山の交渉であったようだ。条約締結にはもう1つの難関があった。孝明天皇が大の攘夷論者であったため、国内に条約反対の世論が巻き起こっていた。大老になった井伊直弼は保守的な考えだったが天皇の意向によって幕政が動かされることに危機感を持ち、条約締結を容認、安政5年6月、日米修好通商条約が調印された。

幕府はその後、オランダ、ロシア、フランスとの修好通商条約に調印。
中国を半占領的に開国させたイギリスとも友好的に日英修好通商条約を結んだ。このとき将軍に献上された「エンペラー号」は後に「蟠竜丸」と改名され箱舘戦争で活躍した。森山はこれらすべての条約調印に係るという多忙さだった。このころの森山の印象を英国エリギン卿秘書オリファントは「淑女のように控えめだが、その裏に限りなく老練で機敏な常識を秘め、交渉では終始重要な役割を果たしていた。まるでタレイラン(フランスの有名な外交官)のような外交官だった」と記している。条約締結にあたった外国人の認識では森山は単なる通訳ではなく外交官の役割を果たしていたということだろう。

攘夷によるテロはますます激しくなり、ヒュースケンの暗殺やイギリス公使館襲撃など、在日外国人にまで及んでいった。攘夷運動の激しさや経済問題のため各国と結んだ条約の期限内履行が難しくなり、文久元年12月、幕府は各国に条約履行延期を求める遣欧使節団を派遣することになった。
使節団の出発のすぐあと、森山の海外渡航が実現する。
イギリス公使オールコックが使節団のバックアップのため帰国することになり、その随行に森山を指名したのだ。突然の海外渡航、それも従者が付かないプライベート旅行だった。
文久2年2月22日、オールコックと森山、外国奉行調役・淵辺徳蔵の3人はオランダ軍艦に便乗して横浜を出港した。この渡航を森山がどれほど待ち望んでいたか、オールコックの著書「大君の江戸」の中にその姿を見ることができる。途中何度も船を乗り継ぎ、3か月後ロンドンに到着するまで、多くの船客たちと交流し、船上での舞踏会や音楽会を楽しんだり、オールコックの知人の家に招かれたり、ときには森山と淵辺の二人だけでレストランでの食事をとったりと、初体験に臆することなく積極的に楽しんでいる二人との旅はオールコックにとっても満足のいくものだったようだ。「彼らはその控えめで穏やかな物腰でいたるところで友人を作った。森山は流暢なオランダ語でオランダ人とすぐに打ち解けていたし、英国人とも十分に情報交換できるだけの英語力を発揮していた。2人の同行を後悔するようなことは一度もなかった」と書いている。この時、淵辺はまったく外国語が話せなかったが、彼の「欧州日記」には各地で出会った人のことやオールコックからの情報が数多く盛り込まれている。おそらく森山が一生懸命通訳して淵辺との情報共有を心掛けたのだろう。

ロンドンに着いた彼らは先発の使節団と合流して、早速幕府から託された開港延期の交渉に挑んだ。それまでの条約はすべて日本の地で行われたが、このロンドンでの交渉は日本人が本国を離れ初めて海外で挑んだ外交交渉だった。開港延期も「ロンドン覚書」という代償付きで英国側の承認を得、使節団はフランス、オランダ、ドイツ、ロシアと回って「ロンドン覚書」に沿った開港延期の承認を得た。後年福地源一郎が自伝でこの交渉で屈辱的な税率を決めたと書いたため、ロンドン覚書は日本に大きな不利益をもたらしたというのが通説になっているが、実際の覚書には具体的な税率はどこにも書かれていない。一律5パーセントの屈辱的な関税率が決まったのは、その後長州が引き起こした馬関戦争での賠償金と引き換えに決まったというのが真実なのだ。

森山たちが欧州を回っていた約1年の間に国内情勢は大きく変化していた。東禅寺事件、生麦事件など外交問題に発展する事件が起こり、攘夷の勢いは幕政を揺るがすまでになっていた。帰国した使節団は、その成果を賞賛されることもなく、その経験を伝達する場もなく表舞台から姿を消さざるを得ない状態だった。森山が再び外交の表舞台に登場するのは、慶応2年ベルギーやイタリアとの条約締結の場で、イタリア使節アルミニヨンは「森山は海外で有名な人物で、彼が出席するということはその会議の重要性を示している」と書いている。

慶応3年、森山は外国奉行組頭として兵庫で居留地造成など開港準備にあたっていた。
10月14日の大政奉還で徳川幕府は消滅したが、開港準備は進められ12月7日予定通り兵庫開港式を迎えた。その2日後王政復古の大号令が発布され、戊辰戦争へと突入していく。その混乱の中で、森山は大阪のイギリス領事館を訪れ、通訳官アーネスト・サトウに、将軍が冠位を返上し、大阪に移ったことを伝えている。将軍慶喜が密かに江戸に逃れ、大阪は大混乱に陥った。兵庫奉行柴田日向守と森山は大阪に集まっていた諸外国の交渉団を兵庫居留地に受け入れた。森山たちは居留地運営をその使節団に任せると、英国船オーサカ号を借入れ、兵庫奉行所の役人や最後まで大阪城に残っていた人々を乗せて江戸に向かった。

政権交代があっても国家にかかわる外交は中断できないため通詞や外国方はそのまま外交事務の処理にあたっていった。そのため、明治新政府にそのまま登用される人たちも多くいたが、その中に「森山多吉郎」の名前はなかった。
通訳をしながら横浜で暮らし、明治4年3月15日、51歳でこの世を去った。
幕末日本の外交の中心にいながら、黒子に徹した半生だった。しかし、森山はそれを悔いてはいなかっただろう。日本の国際化に少しは貢献できたという自負はあったに違いない。ただ、「もういい」という気持ちだったろう。「他人の言葉で外国人と付き合うのはもういい。これからは、森山栄之助として自分の言葉で外国人と付き合いたい」それが、彼の本心ではなかっただろうか。短い間だが外国人で賑わう横浜で彼本来の姿を生きたのだと思いたい。

明治以降の歴史認識は徳川幕府の否定から始まっている。
幕府が諸外国と結んだ条約も治外法権や貿易の不均等など欠点ばかりが指摘されているが、アジア諸国のように植民地的な支配を受けることなく一独立国として平和的な開国を勝ち取ったという側面を再認識してもいいのではないだろうか。それによって、歴史の襞の中に消されていった開明的な幕臣や優秀な外交官の存在が浮き上がってくるだろう。彼らの活躍を知ることで、日本人に刷り込まれた欧米コンプレックスが少しだけ変わるかもしれない。
そしてもう1つ。幕末維新のヒーローたちに国際的な視点を与えた長崎に、郷土が生んだ国際人「森山栄之助(多吉郎)」のことをもっと知ってもらいたい。自己のルーツとなる故郷で忘れられた存在になっていることが森山栄之助にとって一番の悲劇ではないだろうか。
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by windowhead | 2014-08-26 01:32 | 長崎と幕末維新

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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