小島養生所遺構保存をお願いしたい


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今長崎市で小島養生所遺構の保存を巡って住民投票への運動が起こっている。
小学校建て替えの場所から日本近代医学発祥の場所として重要な施設の遺構がでてきたからだ。
長崎市としては、その調査の後埋め戻してそこに計画通り小学校を建てるとしているが、歴史的に重要な遺構を保存しようという動きが大きくなっている。
長崎というところは、平地が少なかったり原爆被害などもあって歴史的な遺構がほとんど残っていない。歴史観光に来た人たちから「いさんでその場に行くと跡地を記す石の柱だけで、がっかりしてしまう」との声も多く聞かれる。そんな中で出てきた近代医学教育の場の遺構。個人的には是非残して欲しいと思っている。

15年以上まえになるが、あるきっかけから松本良順について調べることになって、ポンペと長崎医学伝習所のことを知った。それまでは、長崎の西洋医学=シーボルトだったが、本当の意味での西洋医学(近代に通じる)のルーツはポンペと長崎医学伝習所にあることを知った。調べるほど面白いテーマだった。
その後、県外の女子高校の修学旅行フィールドワークのテーマとして「長崎の西洋医学」が取り上げられ、そのアドバイザーをした。そのとき製作した案内テキストの一部をここに掲載して、小島養生所とは何かを紹介しようと思っている。
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テキストの表紙にはポンペと松本良順たちの写真とともに、ポンペの言葉を掲載した。

「医師は自分がいかなる仕事に従事しているかを承知していなければならない。
  ひとたび医師になったからには、わが身はもはや、自分の身体ではなく、
病める人たちのものである。」
 ポンペ・ファン・メーデルフォルトの言葉

▪️ポンペ以前の西洋医学と長崎▪️
・1567年、キリスト教伝道師ルイス・デ・アルメイダが、キリスト教伝道とともに、病院的な活動を行った。日本最初の南蛮外科医。
・17世紀には通詞の本木良意が、オランダの医学書を翻訳筆写し日本初の解剖図を作った。
・ケンペル、ツュンベリーなどオランダ商館の学者や医師たちが、日本人通詞たちを通して新しい知識や技術を伝えた。シーボルトまでの日本における西洋医学の伝播には吉井耕牛など長崎の通詞たちの努力によるところが大きい。(解体新書を著した1人前野良沢も吉井耕牛の弟子)
・1823年シーボルトが、日蘭貿易のための情報収集の使命を帯びて来日。長崎奉行の好意で在来の医師への講義や出島を出ての診察、薬草収集を許可された。鳴滝に塾を開き、日本全国から150人にものぼる秀才たちが集まった。1829年、シーボルト事件によって日本追放となる。このことにより、ポンペの来日までの約30年間、日本の西洋医学や西洋技術導入はストップしてしまう。
・1848年出島商館医師として来日したオットー・モーニッケによって長崎の医師、楢林宗建の子供に種痘が行われた。その後、長崎に学んだ各藩の医師たちによって、モーニッケの種痘苗は子供の腕から腕へと日本全国に広まった。

▪️近代西洋医学 教育の父・ポンペ▪️
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オランダ海軍2等軍医であったポンペ・ファン・メーデルフォルトは、幕府から要請をうけた第二次海軍伝習隊(指揮官はカッテンディーケ)の教官の1人として来日。5年間にわたって、西洋医学を初めて系統的に多くの日本人学生に教えた。
その教え子らによって日本に、現代につながる西洋医学医師の体系的な育成が定着したので、「近代西洋医学教育の父」と称される。

 最初にポンペの講義を聞いたのは、安政4年(1857)11月12日、松本良順(頭取)をはじめ数名で、みな幕府と諸藩から派遣された者であった。ポンペの在日5年間に彼の指導を受けた者は133人に及んだ。そのなかには司馬凌海、緒方惟準、橋本節斎、戸塚文海、池田謙斎、佐藤尚中、佐々木東洋、岩佐純、長与専斎、橋本綱常、伊東玄伯、太田雄寧のような、その後の日本医界を指導した人々がいた。また、シーボルトの娘楠本イネもポンペに学んだ。

 ポンペは、来日したとき28歳。1つにはその若さもあって、なかなか頑張り屋であり、指導も厳しい人であったといわれる。生徒たちに、まず不撓不屈の精神を求めた。ともすれば病人の手当の方法を早く教えてもらおうとする生徒たちの要求を退け、数学、物理学、化学などの基礎学を徹底的に指導した。

 医学伝習所はまもなく高島秋帆邸(旧大村町)内に移り、文久元年(1861)には、ポンペの進言に基づいて小島養生所(病院)ができ、医学所(医学校)もその隣に移った。養生所は2棟からなる日本初の西洋式付属病院で、この養生所・医学所の併設はポンペの最も大きな功績とされ、長崎大学医学部の前身となっている。

日本初の洋式附属病院「小島療養所」
1961(文久元年)小島郷字佐古の丘の上に医学所と養生所が完成。
ポンペが「長崎の病院」と呼んだ養生所の設備は、
・病室(8室あり、各部屋にベッド15収容)
・隔離患者室と手術室(4部屋)
・薬品・機器・図書などを備えた部屋(1室)
・調理場(ここでは、患者の食事がつくられ、必要な場合は洋食もつくられた。
・浴室
・散歩用の庭園(回復期の患者のためのもの)
・病院の隣に建物1棟があり、その中には講義室と学生の寄宿舎があり、松本良順が監督した。

●ポンペや良順たちの1日はハードスケジュール。
ポンペは 朝8時養生所に出勤し、医学生たちを連れて病室を回診、臨床講義をおこなった。 
 その後、外来患者の診察にあたり、正午から医学校で2時間講義をし、1時間の休憩後、また午後5時まで講義をつづけ、その日の業務を終えた。その間、良順はポンペの医療行為の補佐をし、医学生たちにカルテ、診療日誌の記載、薬の調合を指導した。

●ポンペが日本に滞在した5年間で診療した患者数 1万4530人。
うち日本人患者数 1万3600人(男子5600人、女子5700人、子ども2300人)

当時の主な疾患
 疾患のうち際立っておおかったのは、肺病、気管支炎、心臓病、眼病、コレラ、梅毒だった。
 例)安政6年のコレラ患者でポンペが診察した数 244人
(男107人、女93人、子ども44人)うち快復した者107人。
コレラ:日本に初めてコレラが発生したのは、最初に世界的に大流行した1822年(文政5年)のことで、それ以前には見られない。朝鮮半島を経由したか、琉球からかは明らかでないが、九州から始まって東海道に及んだが、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり、全国を席巻する大流行となった。いわゆる「安政コレラ」で、江戸だけで10万人が死亡したといわれる(この死者数については、過大である、信憑性を欠く、との説もある)。
1862年には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出て、江戸では7万3000人が死亡した。以後、明治に入っても2~3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数えた。



▪️小島養生所での診療の特長▪️
 ポンペは貧乏な人は無料で診察し、侍と町人、身分の高低、日本人西洋人の区別はいっさいしなかった。療養所の部屋や待遇も、身分で差別することがなかった。
封建社会に育った門人達に向って、医師にとっては 階級の差別などないこと、貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけだということを養生所で身をもって実践し教えていた。

長崎大学医学部の校是となっているポンペの言葉は「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というもので、医の真髄を教えたポンペの言動は門弟達の心に深く刻み込まれた。

ポンペは、卒業証書を学生に渡したあと、後任ボードウィンの着任を待って1862年11月に帰国した。
ポンペが帰国時に、医学生2人(伊東玄伯、林研海)や榎本武揚、内田恒次郎、沢太郎左衛門、西周助、津田真一郎ら海軍操練所など幕府関係の留学生たちも一緒にオランダに向かった。オランダ到着後、ポンペは、日本からの留学生の世話役を任命され、留学生たちがその任務をおえるまで、世話役を務めた。


小島養生所は、あの有名な漫画「JINー仁」にも登場した。
ドラマとなった「JIN-仁」の中でもそのシーンがあった。

http://50s.upper.jp/coram/coram-naga4.html#201105






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by windowhead | 2017-12-09 15:55 | 幕末維新歴史研究 | Comments(0)

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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