人気ブログランキング | 話題のタグを見る

戦船(いくさぶね)の幕末維新史=軍艦「甲鉄」始末

戦船(いくさぶね)の幕末維新史=軍艦「甲鉄」始末_b0009103_130376.jpg軍艦「甲鉄」始末  
中村彰彦  新人物往来社


「甲鉄」艦とは、幕末期、幕府がアメリカから買い付けた鋼鉄製の中古軍艦「ストーンウォール」号のこと。維新新政府に引き渡されてから「甲鉄」と呼ばれ、旧幕府軍討伐戦を勝利に道びき、明治海軍発足で「東」と呼ばれる事になる。
この本は、諸外国の陰を感じながらも平和であった島国が、黒船来航で外国の圧力と直面し、大きく揺れ動いていく流れを軍艦「甲鉄」の生涯を追うことで明らかにした戦船(いくさぶね)の幕末維新史。


幕末ファンにとって「ストーンウォール」という名前は特別の意味をもつ。特に旧幕府軍に興味や思い入れを持っている私には「ストーンウォール」は得体の知れない脅威の塊というイメージだった。
「ストーンウォール」の実像が見たい、実態が知りたいと思っていながら、今日までその艦影すら見たことがなかった。本誌に掲載されている写真で初めてその姿を見て愕然としたと同時に宮古沖海戦の作戦失敗の理由も理解しやすかった。
ものすごく独特の船型をしている。
普通、船の形は上底が下底より長い逆さまの台形なのだが、船全体が鋼製のこの船はなんだか平べったくどちらかというと普通の台形に近い姿をしている。喫水下がどのようになっているのかとても興味が沸いてくる姿だ。こんなに平べったい船だったから、宮古沖で野村利三郎たちは飛び移るのではなく、飛び降りなければいけなかったのだ。この異様な形の船が戊辰戦争の戦局を決定付けた。

前にも書いたが、私は宮古沖や箱舘の戦い時にこの「甲鉄」を操船していたのはだれだったのか?もしや、アメリカから回航してきた水夫たちが操船していたのではないのか?という疑問があった。
この疑問については、艦長名など確認できたが、機関長や現場の操舵員や水夫たちのことまでは書かれていなかった。

しかし、それにもましておもしろいことを知った。
アメリカから回航中のストーンウォールには2人の日本人が乗っていたのだ。幕府海軍方軍艦組一等 小笠原賢蔵と同 岩田平作。
この2人は幕府が軍艦買い付けの役割でにアメリカに送った使節団のメンバーで、買い付け組が帰国したのちもアメリカに残ってストーンウォールを受け取り乗船して日本に戻ってきたのだが、彼らが日本に着いたのは慶応4年4月。すでに幕府は瓦解していた。

ストーンウォールを一番良く知るこの2人はその後どうしたか?

小笠原賢蔵の名前は宮古沖海戦に出てくる。
幕府海軍方だった小笠原は榎本軍に合流し箱舘まで行っていたのだ。彼にしてみれば自分が持ってきた船を横取りされたようなものだろう。横取りされたのなら取り返してやる!という意気込みだったろう。「ストーンウォール」のことを一番よく知っている小笠原はアボルタージュが成功したら分捕った「ストーンウォール」の艦長になるはずだった。しかし彼が乗り組んだ「高雄」はアボルタージュに遅れてしまい、さらに漂流して上陸し乗組員は捕虜になってしまう。
もう一人の浦賀与力で長崎海軍伝習所の第一期生という経歴を持つ岩田平作のその後は本書には書かれていないが、どうも病床にあったようだ。

箱舘での海戦の様子も詳しく書かれているが、「回天」と「蟠龍」の奮戦はものすごい。もう捨て身の戦いで、最後にはどちらも動かなくなり新政府軍に火をつけられる。つくづく箱舘戦争の蝦夷共和国軍の奮戦は最後のサムライたちの意地の戦いだったのだと思い知らされる。

明治新政府の海軍のエースとなった「東」艦だが、西南戦争ころには、エースの座を新しい船たちに譲り、明治22年には標的艦として最後のお勤めをまっとうしてその生涯を終えている。
ここでまた小さな因縁を見つけてしまった。
「東」艦と一緒に廃船リストに上がった船に「雷電」という一番古い船があるのだが、実はこれは「蟠龍」なのだ。燃え残った「蟠龍」を大修理し「雷電」と名前を変えて政府に売りつけられた船。「雷電」は民間に払い下げられ捕鯨船になり、明治30年に解体された。
「ストーンウォール」に最後まで戦いを挑んでぼろぼろになった「蟠龍」が「ストーンウォール」と同じ海軍で働き「ストーンウォール」よりも長生きした。あっぱれ!と拍手したくなる。

最後に、「宮古湾春景」と題されたカバー写真の美しさをほめたい。ドラマを予感させる写真だ。
by windowhead | 2006-02-17 01:35 | 至福の観・聞・読

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


by windowhead