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会津に名を残す長崎の豪商・足立仁十郎を追って

長崎の郷土史研究家・越中哲也氏から、長崎歴史文化協会研究室が発行している長崎歴文短信「ながさきの空」283号に掲載してはどうかと誘われたので、足立仁十郎について書いた。
「ながさきの空」は十八銀行の本店支店に置かれているが、そろそろ次号と変わる頃だ。
そこで、アーカイブをこのブログに残しておこうと思う。


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「会津に名を残す長崎の豪商・足立仁十郎を追って」 

会津若松市に「かすてあん会津葵」というお菓子がある。長崎のカステラとは違った風味のカステラ生地に上品な晒し餡が入り、表面には藩公の文庫印「会津秘府」が刻印されている。このお菓子の栞に驚くことが書かれていた。その部分を抜粋する。

…前略…
ではどうして長崎からはるか離れた山国会津に数多くの南蛮文化がもたらされたのでしょう。それには二つの大きな潮流が考えられています。
一つはレオという洗礼名を持つ隠れもなきキリシタン大名蒲生氏郷、他の一つは長崎にあって会津人参の貿易を一手に引き受けていた豪商足立仁十郎であります。仁十郎は二年に一度会津を訪れて南蛮文化をもたらしました。
…後略


会津には、戊辰戦争の象徴として『泣血氈』(きゅうけつせん)という赤い布キレがある。会津戦争終結時に藩主松平容保公がその上に立って降伏謝罪をしたという緋毛氈を忠臣たちが「この日を忘れないように」と切り分けたものである。そしてこの緋毛氈は足立仁十郎が会津公に献上したものだと言われている。
また、会津の民芸品「会津唐人凧」のもとになる唐人凧を伝えたのは仁十郎だという言い伝えもあるようだ。
『慶応年間会津藩士名録』によると仁十郎は足立監物という名で七百石・御聞番勤肥前長崎表住居の御側衆という高待遇で会津藩士に取り立てられている。
幕末の会津の歴史に顔をだす長崎の豪商・足立仁十郎ではあるが、地元長崎の郷土史関係の書籍には、その名前すら載っていないし、仁十郎の足跡はなぜか長崎では、ぷっつりと消えてしまっている。

 昨年夏、長崎県立図書館で『足立仁十郎伝』(藤本勉著)という13ページほどの私家版を見つけた。しかしその中にも長崎での足跡は記録されていなかった。   
偶然にもその日、県立図書館副館長の本馬貞夫氏から、昭和59年発行の『長崎談叢69号』に本馬氏ご自身が足立仁十郎について書かれたとの情報をいただいた。タイトルは『会津藩御用達足立家について―幕末長崎の人参貿易商―』。
本馬氏は、県立図書館蔵(当時)の「明治九年庶務課庶務係事務簿―足立程十郎人参販売一件書類」という史料に出会ったのをきっかけに、会津藩和人参貿易を長崎会所が引き受けたいきさつ、幕末期の和人参貿易の実態、足立仁十郎とその周辺、養子足立程十郎による没収人参返却の訴えとその決着などを調べ、覚書としてまとめられている。

 本馬氏の覚書によれば、会津藩が足立仁十郎を通して和人参(薬用人参、俗にいう朝鮮人参)の輸出をはじめたのは天保元年(1830)。文政12年(1829)幕府は正式に長崎会所を介して清国への輸出を許可している。足立家は屋号を『田辺屋』といい、現在の浜屋デパート周辺に600坪以上の敷地をかまえた薬種問屋だった。

 足立仁十郎は、享和元年(1801)但馬ノ国与布土村森(兵庫県朝来市山東町与布土)の郷士の家に生まれている。若い頃大阪の薬種問屋『田辺屋』(田辺製薬の前身)に奉公し、その間会津和人参の業務に携わり、やがて「のれんわけ」のかたちで長崎に会津人参御用達『田辺屋』を開いたようだ。
 当時、海防警備役などで、財政破綻寸前だった会津藩にとって、和人参輸出の収益や仁十郎の3万両を超える献金は大きな支えになっていた。それに報いるように会津藩も仁十郎を手厚く遇している。
 仁十郎の菩提寺でもある兵庫県山東町与布土の玉林寺に仁十郎の肖像画があると聞き、ご住職にお願いして写真をいただいた。仁十郎66歳の時の姿らしい。裃の紋は足立家の家紋だが、着物の袖に葵の紋が入っている。着物は会津公から拝領したものだろう。会津藩の仁十郎に対する感謝の気持ちがうかがえる。幕末になると仁十郎は会津藩の武器購入にも関わったらしく、ドイツ人武器商人カール・レーマン等について書かれた『近代日独交渉史研究序説』(荒木康彦著)の中にその名が出てきた。
                                        
 戊辰戦争後は、朝敵にされた会津藩の御用達に対する風当たりは厳しく、慶応4年(1868)3月、新政府が設立した長崎裁判所の参謀となった長州藩士井上聞多は、強制的に足立家の輸出用和人参を没収した。その結果足立家は家屋・家財一切を手放さざるを得なくなり、急速に没落していったようだ。
 そのような逼迫した状態にあっても足立家は、旧会津藩士子弟の九州留学の身元引受人をするなど、会津藩との関係に筋をとおしている。足立仁十郎とその一族はビジネスでは失敗者だろうが人間的なまっとうさを感じさせる。

 その足立仁十郎と家族の墓所が祟福寺裏山の墓地にある。お寺側の話では、すでに長崎での血縁は途絶えているらしく、お参りの人もほとんどないと言う。仁十郎とその妻の墓石には「祟福外護」と刻まれている。この墓は長崎に残る数少ない足立仁十郎の足跡だ。
 この正月4日、祟福寺の足立家の墓所を訪ねた。墓石の中に長崎の国学者で長崎市史の編纂に参加した半顔足立正枝(大正10年没)の名も刻まれていた。先日足立家の墓域を訪ねたら、それぞれの墓石の前に小菊が供えられていた。誰がお参りしたのだろうか。子孫の方がいらっしゃるのだろうか。仁十郎への興味がますます膨らんでくる。

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足立仁十郎の「田辺屋」没落の原因に長州ファイブの一人・井上馨が絡んでいた。
by windowhead | 2006-03-14 01:25

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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