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「幕末の桑名」 重工業と金融業の基礎を築いた新選組隊士たちがいた。

「幕末の桑名」 重工業と金融業の基礎を築いた新選組隊士たちがいた。_b0009103_3374985.jpg「幕末の桑名 ~近代ニッポンの基礎を築いた桑名のサムライたち」
バーバラ寺岡/著 桑名市教育委員会 ・新人物往来社/出版

以前の記事『「三菱長崎造船所」初代所長は新選組隊士だった』でも書いた箱舘新選組隊士・大河内太郎こと山脇隼太郎正勝をはじめ、戊辰戦争を藩主・松平容敬公といっしょに「賊軍」として戦い抜いた桑名藩士たちの生涯を追った一冊。

山脇正勝のひ孫であるバーバラ寺岡さんの家に受け継がれた初公開の資料がベースになっているようだが、写真も多く、資料の原本にも強く惹かれる。

私も、山脇正勝が初代所長を勤めた事業所の広報マンをやっていたので、山脇正勝には格別な興味がわく。初代所長の写真はなかなかハンサムだったこと。戊辰戦争を戦ったこと、その戦さで小指をなくしたことなどは、知っていたが、まさか「賊軍」それも新選組隊士であったとは夢にも思わなかった。明治も17年になっていたとはいえ、土佐藩士岩崎弥太郎が社長の会社の重役が元新選組隊士とは、だれが想像できただろう。ましてその勤務地が長崎なのだ。

この本の表紙に掲載されている若者の集合写真。左端が山脇正勝。刀に添えた左手の小指が欠けている。
右から2人目も元新選組隊士神戸四郎こと高木剛次郎(貞作)。この二人は土方が率いた箱舘新選組で最後まで戦い抜いて弁天台場で捕虜となり、解放後、アメリカに渡ってビジネススクールに学んだ。帰国後、山脇は「三菱」で重工業の基礎をつくり、高木は「三井」で金融業の重鎮にまでなっている。
山脇と高木の間に座る白い着物の若者は立見鑑三郎。のち、乃木大将より優れた陸軍大将だといわれた立見尚文だが、新選組ファン、特に土方ファンには、幕府脱走軍で土方の指揮下で戦った桑名藩士の名前として記憶されている人だ。明治政府陸軍で頭角を現す立見の戦さ上手は、土方の影響が大きいのではないだろうか。少なくとも、一緒に戦った土方の峻烈さは記憶に残っていただろう。

この3人は容敬公の小姓で、写真に写った明治3年ごろにはまだ22,3歳。土方より15歳近く若い。土方も当時としては近代的な顔をしているが、山脇正勝はもっと現代人に近いハンサムだ。

山脇正勝の興味深いエピソードは
・洋行帰りのスマートな外見を持っているが、中味は武士のまま。娘たちの名前にその性質が現れている。崎子、瓊子(たまこ)、哲子、勝子。てつ、たま、かつ…なんともかわいげのない名前だこと。
・高島炭鉱の社長も兼任していたが、荒くれ者の炭鉱夫たちに慕われていたらしく、正勝が経営していた15年間が高島炭鉱は労使がまとまり、もっとも業績を上げていた。
・部下には「酒はいくら飲んでもいいが、仕事はがんばってやれ」と言っていたらしい。上記の高島炭鉱の話やこの言葉を見ると、なんとなく箱舘での土方が連想される。
・三菱長崎造船所資料館には、当時では珍しかった複式簿記の会計簿が展示されているが、これもアメリカで学んだ山脇の考えだろうか。もしかすると、いっしょに渡航しビジネススクールで会計学を身につけたもう一人の元新選組隊士・高木貞作がアドバイスしたものかもしれない。

そのほかにも、仙台で蝦夷地に渡る決意をした容敬公は髪を切り、銃を抱えて兵卒姿になったこと、藩主とともに蝦夷にいけなくなった桑名藩士に「新選組に入れば同行を確約する」と土方が助言したことなどは、土方ファンには有名なエピソード。

明治に名を残した実業家や軍人たちのエピソードの中に、土方歳三の名前が登場すると、彼が間違いなくつい130年ほど前に生きていた人であり、新選組が間違いなく存在したことを再確認する。

それにしても、近代の扉をこじ開けたのは薩長だろうが、彼らが近代を作ったわけではないことがこの賊軍・桑名藩士たちのその後の生き方でも知ることができる。旧幕府や藩の人材の豊かさ、人格の高さを改めて知らされることになった。

幕末ファン、新選組ファンにはぜひ読んでもらいたい本。
by windowhead | 2006-06-13 03:38 | 至福の観・聞・読

日本の西海岸・長崎からのつぶやきはビンの中の手紙のように漂いながら誰かのもとへ


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